海の遊牧民の記録(下)
彼ら、すなわち「海の遊牧民」の宗教は、基本的にクジラと祖先を崇拝するものである。
クジラはまさに彼らの母であり、彼らが生きているのはクジラたちによる。
彼らにとってこの世界の始まりは、「クジラの腹の中」で母なるクジラから人が生まれた、というものである。異常出生譚の一つにも思われるが、これは彼らには物語ではなく事実である。
母なるクジラから生まれた人間は、クジラのように泳ぎ続けることができず、あやうく死にかける。その人間に母なるクジラが「父祖の骨より船を作れ」と命じ、彼らの暮らしが始まった。
現代でも伝統的な彼らの船はクジラの骨を基礎にしている。帆はイルカの皮である。
彼らはクジラを「母」として、まるで子供が親を慕うように愛し、崇拝するが、イルカに関しては完全に家畜として扱っている。
肉を食べ皮を剥ぎ脂を絞り、イルカは暮らしにおいて余すことなく使われる。それも、クジラの神である「母」に命じられたことである。
また、彼らは鳥や魚を目印に、プランクトンが多い方へと移動するが、その行動を助けるのは主にイルカだ。イルカは魚を食べるためである。プランクトンには魚が群がり、当然ながらイルカはそれを目指す。海の生態系を活かした生活をしているのだ。
彼らの神話に話を戻す。
海の遊牧民たちはクジラと祖先を崇拝するが、祖先崇拝も母なるクジラが命じたものである。
母なるクジラは最初の人に、「おまえの父とお前の祖父は我の中にある。我を崇めるように父祖を崇めよ」と命じた。
彼らはクジラのなかに、海を見出していたというのは、大袈裟だろうか。
その信仰も、最近では少しずつ忘れられ始めた。
クリスマスを祝ったり、正月を祝ったり、彼らの文化は次第に陸の文化に染まりつつある。それでも彼らはクジラとイルカを捨てて陸に上がろうとはしない。文化は変わりつつあるが、彼らの本質はぶれることなく堅く立っている。
前に述べた通り、彼らは温暖化で暮らしが厳しくなっても、滅びるならそれでいいと口を揃える。
彼らはそもそも陸で暮らすという考えがないのだ。彼らは陸を安全でないと思っている。陸には国家があり、国家は一方的に法律を定め、法律は暮らしを厳しくするのだと彼らは言う。
彼らはいわばさすらいの民で、自由にこそ価値があると信じている。彼らには法律はなく、ただクジラと祖先を崇め、イルカの肉とクジラの乳を食べることだけが日々決まっていることである。
彼らを文明化し、自国民にしようとする他国の侵略は過去何度かあった。いろいろな国が、彼らの行動力を手に入れようとしたが、そのたびに彼らのために大嵐が来たという。
彼らは陸の人間の船に襲われると、みな海の中に逃げてしまう。嵐で荒れていようが、彼らはびっくりするほど自在に泳ぐことができる。それはイルカたちが彼らを補助して、安全を守ってくれるからだ。そして、彼らと共に暮らしているクジラたちは、侵略者の船に体当たりし、彼らを守ろうとする。
彼らは自由でなくなることをよしとしない。それを、イルカもクジラも高い知性で理解している。
彼らは経済からも自由である。基本的に商業というものを知らないのだ。まれに、突出して美しい嫁入り装束にイルカ何頭、みたいなやり取りが発生することもあるが、嫁入り装束は一代限りであることが多いし、彼らはものの売り買いということをよく知らない。
むしろ、船に貴金属や金属の通貨を置こうとは思わないらしい。彼らのことわざで「金物は沈む」というものがあり、金属は縁起の悪いものとされているようだ。
いまでは若い世帯を中心に漁業用無線が普及したが、老人たちは漁業用無線をさきほどのことわざから「金物は沈む」と言って嫌う。
彼らの世界で価値があるのは、あくまでクジラとイルカと船である。嫁入り装束ですら、いいちど着たら海に還してしまうことが多い。
嫁入り装束のために素潜りで拾ってくる美しい貝殻は、いまではマリングラスや硬質なプラスチックに置き換わりつつあるという。
イルカがビニール袋を飲み込んで死んだり、遠洋漁業の漁網に引っかかって怪我をしたり、というようなことも近年増えている。
それでも彼らは、滅びるならそれで構わない、と言う。彼らは昔からの文化を受け継いで暮らしているわけだが、その暮らしができないのであれば死んだほうがマシ、という誇り高い民族なのだ。
これまで、彼ら「海の遊牧民」の暮らしについての詳細な研究が行われないまま、彼らを面白おかしく見たり、あるいは気味悪がる風潮があった。
しかし彼らの暮らしは、海に根ざした真摯なもので、伝統ある暮らしを守ることができなくなるなら滅びても構わない、というまでの己への誇りを伴うものだ。それを見知らぬ陸の人間が、イルカを食べるのは野蛮だ、とか、文明程度の低い民族だ、とか言うのは間違ったことだと私は考える。
もちろん捕鯨がいいとは言わない。ただ、彼らの文化を尊重し、彼らが諦めて滅びないように、気候変動を食い止めたり世の中を変えていく必要はあるのではなかろうか。
海の遊牧民 金澤流都 @kanezya
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