妻の裏切りを知ったあの夏の日。

三愛紫月

愛なのか?【再度、修正しました】

人生で、最悪な選択があるとするならば、僕はきっとあの日だと言うだろう……。


僕は、羽村緑はむらみどりと結婚して8年目を迎えた。


緑は、僕こと五十嵐祐作いがらしゆうさくを愛してくれている。


僕は、緑から八年前、逆プロポーズを受けて結婚する事になったのだ。


「結婚は人生の墓場だ!」

プロポーズを受け入れようとする僕に、友人の篠宮光太郎しのみやこうたろうは、大きな声で叫んできた。


「声が大きいよ!光太郎」


「ごめん、ごめん。でも、本当、結婚なんてやめるべきだよ」


光太郎は、そう言って笑った。


でも、僕も緑も共に33歳だ。

付き合って、5年も経つのに結婚をしない理由など、どこに存在するのだろうか?


そう思って、僕は緑のプロポーズを受け入れたのだ。


迷いがなかったと言えば嘘になる。

それでも、結婚した事に後悔などしてはいなかった。


そう思っていた。


あの日までは……。


そう、あれは三年前の夏の出来事だった。


熱中症になるのではないかと思う程、熱くて堪らない体を引きずるように帰宅した僕は、そのままシャワーへ直行しようとした足を止める。


「そんな無理に決まってるわ!今から何て無理よ!これから、夫が帰宅してくるの……。わかって、今日は無理なの」


どこの誰かわからない人間に電話をしている緑の声が聞こえてきた。


緑は、不倫してる。


すぐにビビビとセンサーが働いたけれど、それを直接聞く事が、僕は出来なかった。


僕は、重くて熱い体を引きずるようにシャワーに入る。

鏡にうつる、ブヨブヨのお肉。


「これだから、飽きられたのかな?」


僕は、自分の体にある贅肉をつまみながら鏡を見つめていた。


夏の暑さの火照った体を少しだけ冷たいシャワーを浴びながら冷やす。


まさか、緑が不倫しているとは思わなかった。しかし、そんな事を聞けるはずはない。


「祐作さん、帰ってたの?」


「あ、ああ。今しがたね」


「そうなのね!お帰りなさい」


「ああ」


何事もないように、緑の声がしてくる。


タオルと下着とルームウェアを置いてくれている音が聞こえている。


「じゃあ、私はリビングにいるね」


「ああ」


本当は、緑にどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。気がつけば、僕は指先がふやける程シャワーを浴びていた。


その指先を見つめながら、覚悟を決めて、シャワーから上がるしかなくなってしまった。


緑が用意してくれたバスタオルで体を拭き、下着を履いて半袖と短パンの部屋着を着る。


外では着れない半袖を部屋着にしてるだけあって、見た目にはヨレヨレで何とも貧乏臭い。洗面所の鏡に映る自分の姿を見つめる。


「これじゃあ、浮気されて当然だ」


僕は、鏡の自分にそう呟いてから……。


リビングへと向かった。


「祐作さん、シャワー長かったわね」


「ああ、うん」


「脱水おこすよ!これ、経口補水液」


「ありがとう」


そう言って、差し出されたのは緑お手製の経口補水液。

付き合ってる時、夏になるとよく僕はスポーツドリンクをがぶ飲みしていた。それを見た緑が、何て体に悪いものを飲んでるのと経口補水液を手作りで作ってくるようになったのだ。最初は、こいつを美味しいと思えなかったけれど……。


慣れてしまえば美味しいものだ。


「ご馳走さま」


僕は、経口補水液を飲み干して緑にコップを差し出した。


「はい」


緑は、またキッチンに向かう。


緑が冷房を効かせてくれているのにもかかわらずいろんな場所から汗が吹き出してこようとするのは、テーブルに置かれたこのスマホのせいだ。


緑は、スマホをなくさないようにとショッキングピンクのド派手なケースにスマホを入れている。


それが、目を反らしたくても、嫌でも視界に入るのだ。

普段なら、気にならないスマホ《それ》が、緑の不倫を知ってからは気になって気になって仕方がないものに変わった。


「アイス食べる?凄い汗ね」


「えっ!」


何の足音もせずに、突然隣に現れた緑に、僕は驚いて、なんとも間抜けな声を出した。


「濃厚なソフトクリーム買ったのよ!」


「食べるよ」


嬉しそうに笑う緑に、何故だか吐き気がする。


緑は、いったいどんな風に不倫相手そいつに笑うのだろうか?そんな考えが一瞬、頭に過ったからだった。


「はい、ソフトクリーム」


「ありがとう」


スマートに笑って受け取った気がしていたけれど、多分。

嫌、絶対に顔がひきつっていたに

違いない。

それでも、僕は知っている事をバレたくなくて出来るだけ普段通りを心がける。


「ソファーで食べよう」


「そうだね」


結婚して5年。子宝には未だ恵まれてはいなかったけれど……。

人並みに幸せにやってきた自信だけはあった。

僕と緑は、三人がけのソファーに並んで座る。


「テレビいらないよね。祐作さんは、苦手だもんね」


「嫌。つけよう」


いつもは、緑と他愛のないお喋りをするのが楽しいのだけれど……。

今日に限っては話せば話す程に墓穴を掘ってしまいそうな気がしていた。


「そう、わかった」


「うん」


緑がそう言って、テレビをつけると、天からの助けだろうか芸人さんがコントを披露している!


「違うのにする?」


「嫌、たまにはいいよ!こういうの」


「そう。じゃあ、このままにしとくね」


僕は、基本的にお笑いは漫才以外は見なかったけれど……。


でも、今はそんな事など言っていられない状況だ。


口を開けば、緑に不倫をしているのか?と聞きたくなってしまう。

そして、何よりあのショッキングピンクのド派手なスマホが気になって気になって仕方がない。


「溶けちゃうよ!祐作さん」


「あっ、うん」


僕は、その言葉にソフトクリームの蓋を開ける。

少しだけ柔らかくなった濃厚なソフトクリームを食べながら……。


「ハハハ、ハハハ」


面白いかもわからなくて、内容も全く入ってこないコントを見ながら、僕は笑っていた。


「アハハ、やっぱり面白いね」


「確かにね」


「芸人さんって凄いね」


「うん」


テレビのお陰で、どうにか緑と会話が出来て助かっていた。


ふにゃりとした柔らかいコーンを噛る。


いつもなら、好きではないからこの部分は緑にあげているのだけれど……。


「祐作さん、今日は全部自分で食べれたんだね」


ソフトクリームを食べ終わって、緑にそう言われた。


「たまには、あの部分も美味しいものだね」


僕は、空になったソフトクリームの容器に蓋を一生懸命はめながら話しをする。


「そうでしょ?捨ててくるわ」


緑は、僕の容器を持って立ち上がってゴミを捨てに行った。


その姿を見つめながら、僕は気分が悪くて悪くて堪らなくなった。


「麦茶入れてきたよ」


「ありがとう」


キッチンからコップに麦茶を2つ注いだグラスを緑は両手に持って現れる。


グラスには、少しだけ氷が入っていた。


「ずっと、家にいるでしょ?だから、お義母さんが習い事をしてみたらっていうの」


「そう」


母と緑は、僕抜きで食事やお茶に行く程、仲が良い。


「それで、賀寿子かずこが、お試しでヨガにでも行ってみようって言うのよ。だから、明日行く事になっちゃったの。せっかくの休みだったのにごめんね」


賀寿子は、緑の一番仲のいい友人だ。


「いやいや。いつも、一緒にいるんだからたまには行ってきたらいいよ」


「ありがとう」


そう言って、緑はキラキラと笑っている。

日曜日に賀寿子ちゃんとヨガに行く。普段だったら、右から左に流せるような言葉が今日に限っては脳の一部で止まっている感覚がしている。本当に賀寿子ちゃんと行くのだろうか?

疑わしきは罰せずと言葉があるけれど、誰に話したって今の緑は真っ黒だ。

僕が、裁判官なら有罪判決をすぐに出している。

って、こんな考えが浮かんだのはテレビの中の芸人さんが「裁判長」などとコントをしているせいだった。


「明日のお昼ご飯、祐作さんどうする?」


「あっ、えっと……。適当に何か食べるよ」


「わかった」


緑は、そう言うと立ち上がってショッキングピンクのケースに入ったスマホを持ってくる。


今、そいつを見ると中が見たくて堪らない。僕は、目を反らして麦茶を飲んだ。


「賀寿子も、子供と離れられるからラッキーだって」


そう言って、僕にスマホの画面を見せてきた。


「本当だ。このゾンビみたいなOKスタンプが特に疲労感漂ってる感じがするね」


「そうでしょ?これね、ゾンビ主婦って言うスタンプなの」


「へー」


「主婦の間で流行ってるのよ」


「そうなんだね」


ゾンビ主婦と言うスタンプよりも、僕の心の方がゾンビそののだ。

今、賀寿子ちゃんのメッセージを見せられた僕は、決定的な証拠がない限り、明日緑が、不倫相手とデートしていた所で問い詰める事が出来なくなってしまっていた。


さっき麦茶で喉を潤したばかりなのに、やけに喉が渇く。

僕は、ゴクゴクと麦茶を飲む。


「祐作さんは、習い事した方がいいと思う?」


普段なら、可愛くて抱き締めてしまいたくなる僕を見つめてくる緑の仕草が……。

今は、ただ、ただ、寒気と吐き気の対象だった。

緑は、黒目がちな瞳を左右に揺らしながらさらに見つめてくる。


その目を不倫相手にも見せているのではないかと思うだけで、僕は気持ち悪くて堪らなかった。


「緑がしたいなら、すればいいよ」


「やっぱり、働いた方がいいわよね」


緑は、そう言いながら目を伏せている。


「好きにすればいいんじゃないか……」


緑は、いったい何を企んでいるのだろうか?

働きたいと言う事は、働きにいくふりをして不倫相手そいつに会いに行くという事ではないのか?


「祐作さん、体調悪い?」


そう言って、緑がおでこに手を当ててこようとするのを、僕は反射的に避けてしまった。


「ごめん。今日は、さっさとご飯を食べて休ませてもらうよ」


「あっ、うん。カレー作ったから、温めるね」


「いや、あっさりとしたものが食べたいから……」


「素麺でも湯がくね」


「いや、いいよ。自分でやる」


僕は、そう言って緑を制してしまう。反射的に気持ち悪いが勝ってきている自分に気づいた。


僕は、立ち上がってキッチンに行くと、小鍋でお湯を沸かす。


いつまでもこんな態度をしていたら、緑を浮気相手に取られてしまう。


そう思ってはいるのに、体の拒否反応を止める事が出来ない。


僕は、素麺を置いてる箱から取り出す。


緑は、ソファーに座ったままこちらにはこなかった。


緑、君はそいつとどこまでいったのだ?


ハグはしたのか?キスはしたのか?それより、もっと先へ……


気づいたら、取り出した素麺の束を折っていた。

湯がくのに丁度いいサイズになってくれた。僕は、グラグラと揺れる小鍋に素麺を入れる。


最悪だ!

吹き出しそうなお湯に水を注いで湯がいた。小さなザルに湯がいた素麺をいれてお水と少量の氷で冷やす。


僕は、お椀につゆと素麺を放り込んで、その場で胃袋に流しいれた。


「お皿は、私が洗うわ」


食べ終わると緑が現れた。


「ごめん。じゃあ、お休み」


僕は、緑を見ずにそう言ってリビングを後にした。洗面所に行って、冷たい水で顔を洗う。


冷静になれ、許すんだ。まだ、証拠を掴んでいない。

そう自分に言い聞かせるのに吐き気が襲ってくる。


駄目だ、駄目だ、駄目だ。


僕は、歯を磨いて慌てて二階に上がる。


職場の恩田さんが旦那さんに浮気をされて許せないと言った気持ちが今になってわかった。


「同じ空気も吸いたくないわ!子供がいなかったらあんな奴捨ててるわよ!気持ち悪い」


同僚は、恩田さんって酷いよなーー何て言っていたし、僕も、少しぐらいなら許してもなんて思っていた。


それは、当事者になるまでの話だ。


僕は、緑とベッドが一緒じゃなくて、心底ホッとしていた。

許すとか許さないではない。

体が本能で拒絶してるから自分でもどうにも出来なかった。


兎に角、寝て忘れてしまおう。

明日になれば、もしかしたら許せるかもしれないんだから……。

僕は、そう思って眠りについた。


変に疲れていたからだろうか?

僕は、一瞬で眠りに落ちていた。


▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼


「はぁ、はぁ、はぁ」


寝汗をビッショリかいて起きた。

息が出来ない夢を見ていた気がする。ふと、隣を見ると緑が眠っていて、サイドテーブルにはあのド派手なスマホケースが私を見なさいと言っているように置かれていた。


気になる。


どうしても、見なくてはいけない気がする。


いやいや、見てしまったら最後だ。


まだ、僕にだって良心もある。


やめておかなければいけない。


ブブッ……。


僕の良心を壊すように緑のスマホが震える。


駄目なのは、わかっていながら僕は手を伸ばしてしまった。


スマホは、案の定ロックがかかっている。


指紋認証だ。指紋だ。


僕は、緑の指をスマホに押し当てた。


ロックが開く。


【明日、10時だね!OK(^^)bよろしく】


わざわざ見る必要などなかった。

それは、賀寿子ちゃんからのメッセージで……。


最低だ。

自分が、汚いものに思ってしまった。僕は、緑のスマホを置いて、ベッドに戻る。


不倫相手ではない、ただのメッセージを指紋認証を解除までして読んだ行為は、かなりの空しさが感じられた。


ダサい。惨めだ。


緑の不貞の証拠が見つかれば話は違っていた。


賀寿子ちゃんだったせいで、僕は敗北感に包まれる。


その後も、僕はなかなか寝付けずに、モヤモヤとゴロゴロを繰り返し続けていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


ジリリリーー


目覚ましの音で目が覚める。どうやら、いつの間にか眠っていたようだった。


隣のベッドを見ると、緑はもういない。


僕は、目覚まし時計を止める。時刻は、朝の8時だった。


「はあーー」


大きなあくびをしてから、伸びをした。


まだ、緑は一階にいるはず……。

僕は、ゆっくりと階段を降りていく。

うがいをして、顔を洗って水でも飲むかな……。


「そんな今日は無理だって話したじゃない。昨日、わかってくれたんじゃなかったの?」


緑の声が響いて、僕は立ち止まった。


「今日は、夫がいるって話したでしょ?それに、賀寿子とヨガに行ったりご飯を食べに行くの」


緑は、誰かにそう話している。話をよく聞くと電話の相手は、不倫相手のようだ。


「わかったわ。少しだけよ。3時に、ミシェルね。わかった」


ミシェルと言えば、駅前に最近出来たラブホテルではないか……。


僕は、今降りてきたかのようにわざとらしく音を立てて歩く。


「祐作さん、おはよう」


「おはよう」


「私、もう少ししたら行くわね」


「ああ、気をつけて」


僕は、緑と話てからすぐに洗面所に向かった。歯を磨いて、うがいをする。


緑は、僕と入れ替わりで洗面所にやってきた。


「洗濯していくわね」


「ああ」


僕は、吐きそうになりそうな口を押さえて頷く。

緑を見ないようにキッチンへ行く。

これが、正常な反射だとしたら僕はこの先、緑と暮らしていけるのだろうか?


僕は、キッチンで空っぽの胃袋に水を注ぎ入れた。


「じゃあ、私。行くわね」


どれだけ、キッチンにいたのだろうか……。


薄化粧とラフな格好をした緑が現れる。


「気をつけて」


「行ってきます」


緑は、手を振って出て行った。

下をみると視界の先に、緑が僕の為に朝食を用意してくれているのがわかった。


ゴト、バシャッ、ガチャン……


気づくと、生ゴミうけにそれを捨てていた。僕は、キッチンでお湯を沸かす。ストック食材から、カップラーメンを取り出した。


もう、離婚かな……。


この体の拒否反応を思えば正常な判断のはずなのに、涙がポタポタと流れ落ちてくるのは何故だろうか?


もしかすると……。


相手を知らないから、不快なのだろうか……?


今思えば、こんな事を考えなければよかったのだと思う……。


だけど、僕の頭の中にはもうそれしか考えられないほど追い詰められていたのだ。


カップラーメンにお湯を入れて、3分経ってから、ズルズルと胃袋に流し入れる。


緑が笑うと吐き気がする。触られそうになると避けたくなる。


なのに、離婚を考えると涙が流れた。


許すしかないのか?


僕は、流しにカップラーメンの汁をこぼす。


やられた方の苦痛を、やった方はどれだけ考えてくれるのだろうか?


緑は、浮気がバレないと思ったのだろうか?


確かに、僕達は子宝には恵まれてはいない。


しかし、二人でも幸せだったのではないだろうか?


母さんと緑は、仲がいい。


嫁、姑のギスギスしたものも、なかったはずだ。


何が気に入らなかったのだろうか?


確かに、夜の方は月に数回になってしまっていた。しかし、それはここ数ヶ月の話で……。


それは、夏の暑さのせいで……。


頭の中で並べたくった言い訳に反吐が出そうになる。


それから後の事は、あまり覚えてはいなかった。


夏らしい雷雨が降り注ぐ中、僕はミシェルの前に立っていた。

頭から足の先まで、びしょ濡れのまま。


暫くすると、緑が現れて……。

スーツを着た男と共に並んでいた。

その横顔を見つめながら、僕は許せるのかをずっと問いただしていた気がする。


▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲


あれから、三年の月日が流れた。


「光太郎、今も犯人見つかってないのか?」


「ああ」


僕は、光太郎と一緒にカフェで珈琲を飲んでいる。


「でも、生きていてよかったよ」


僕は、光太郎の顔を見つめながら話す。


「そうだよな」


三年前の雷雨の日、光太郎は信号待ちをしている所を誰かに突き飛ばされたという。

手足の骨折は、何とか完治したけれど、顔の傷跡は手術を繰り返すもいっこうによくはならなかった。


顔の右半分にある大きな傷跡と左右の高さが変わってしまった目。高校生の頃は、学年のほとんどが恋をしていたというイケメンの姿は、もうそこには存在していなかった。


「今では、祐作以外みんな俺を避けるんだ」


「大丈夫か?泣くなよ。僕は、一生変わらないから」


僕は、光太郎にハンカチを差し出す。


「ありがとな。祐作」


「いいって」


何故か緑も光太郎に会いたくないと言い出した。


「ごめんな。家で一緒に食事とかしたいのに……。緑がさ……」


「いいんだよ。誰だって、こんな顔の奴とご飯なんか食べたくないよ」


「自分の事をそんな風に言うなよ。光太郎」


僕は、いつも光太郎にそう言う。


「今日、結婚記念日だから、そろそろ帰るよ」


「わかった」


僕は、光太郎にそう言ってお金を払った。


「いつも、ごめんな」


「いいんだって」


貯金を切り崩しながら、ギリギリの生活を送っている光太郎は、僕にいつも謝ってばかりいる。


「車で送るよ」


「ありがとう」


街を歩くと人々は光太郎をジロジロと見つめながら何かを話す。

だから光太郎は、いつも黒くて大きなサングラスをつけている。

僕は、車に光太郎を乗せた。


「目撃者もいなかったんだろ?防犯カメラは?」


「いなかった。壊れてたって」


「そっか……」


「祐作、ありがとな。いつも、いつも、ごめんな」


「いいんだよ。光太郎」


僕は、光太郎をアパートに送り届ける。マンションを買って、悠々自適な独身生活を送っていた光太郎が

今は4万円のアパート暮らしだ。


「可哀想に……」


僕は、ポツリと呟いて車を走らせる。


目撃者がいない……


はずはなかったんだよ。


光太郎……。


僕は、家の駐車場に車を停めてから歩きだした。


あの日、目撃者はいたんだよ。



「ただいま」


「お帰りなさい、祐作さん」


「結婚記念日だから」


僕は、車に乗せていたアクセサリーの紙袋を緑に差し出した。


「ありがとう、凄く嬉しい」


「よかった。喜んでくれて」


緑は、ニコニコと笑いながらジュエリーの箱を開けている。


「凄く綺麗」


「よかった。気に入ってくれて」


僕は、笑いながら緑を見つめていた。


「祐作さん、手を洗ってきて!ご飯を食べよう」


「わかった」


あの雷雨の日のお陰だろうか?


僕は、妻に対しての吐き気や気持ち悪さがいつの間にか消えていた。


僕は、手を洗ってからキッチンに行く。


「祐作さん、準備は出来てるわ」


「凄い料理だね。ローストビーフにミネストローネにカプレーゼか、これはラザニアか」


「うん、そうよ」


緑は、嬉しそうに笑っていた。


「篠宮さんは、元気だった?」


「ああ。変わらずだったよ。やっぱり、ひねくれてしまってた」


「可哀想ね」


「そうだな。可哀想だな」


僕は、ダイニングの椅子をひいて座る。


「祐作さん、ワイン飲みましょう」


「ああ。開けるよ」


僕は、ワインの栓を開けた。


ポンッ……。


いい音がして、コルクが抜ける。


並んだ二つのワイングラスにトクトクとワインを注いだ。


「犯人は、まだ見つかっていないの?あんなに、大怪我をしたのに……」


「どうも、そうらしい」


「可哀想ね。篠宮さん」


「だったら、たまには光太郎もさ」


緑は、その言葉にあからさまに嫌な顔をする。


「もう、この話はやめようか。乾杯」


「乾杯」


僕と緑は、グラスを軽く当ててからワインを飲み始めた。


僕は、結婚式ディナーを食べながら思い出す。


あの雷雨の日を……。


††††††††††††††††††††


ザァーー、ザァーー


雨は、止みそうになかった。帰ろう。


気づくと二人は、いなくなっていた。


僕は、びしょ濡れの体を引きずるように歩く。


暫く歩いていると、信号待ちをしている光太郎を見つけた。


僕は、光太郎に近づいていく。


お前が悪いんだ。


お前が悪いんだ。


あの時、見えた横顔は紛れもなく光太郎だった。


ドンッ……。


えっ?


僕が光太郎をどうにかする前に、光太郎はどうにかなってしまった。


大きな車がやってきて、光太郎が消える。


「待って」


僕は、走って、黒い服を追いかける。


どこに行った?


「はぁ、はぁ、はぁ」


僕は、その人を見失っていた。


「悪いのは、あいつだよな?五十嵐」


僕は、その声に顔を上げる。


成戸なると先輩……」


怖くて足がすくむ。


「篠宮がさーー。俺の妹を振るからさーー」


「成戸先輩、それって……」


いつの話ですか?と言いそうになった口を押さえていた。


「黙っとけよ!五十嵐。俺は、もう長くないんだよ」


その言葉に、僕は首を縦に振る。


成戸先輩は、本当にその言葉通り三ヶ月後に亡くなった。


成戸先輩の妹が光太郎を好きだったのは、高校生の頃の話だった。


成戸先輩の妹が亡くなったのは、事故で……。


それなのに、成戸先輩が何十年も光太郎を怨んでいた事に僕は驚いていた。


もしかすると緑との不貞を知ったせいで、成戸先輩は許せなくなったのかも知れない。


この先、二度と本当の事を知る事はない。


あの後、光太郎は入院した。


光太郎が、入院して二ヶ月が経った頃。


突然、緑が一緒にお見舞いに行きたいと言ってきて、僕は病院に連れて行った。


この時の僕は、まだ少しだけ緑への嫌悪が抜けていなかったけれど……。


この日、完全に抜け落ちた。


光太郎の顔を見た緑がひきつった笑みを浮かべたからだ。


所詮、あの顔に惚れたのだという事が僕にはわかる。


僕は成戸先輩のお陰で光太郎に初めて勝った。


僕は、毎回光太郎に好きな人を取られてきていた。


結婚して、緑をなかなか会わせなかったのは、光太郎に取られたくなかったからで……。


僕は、本当の意味で光太郎に勝てたのだ。


そして、何より光太郎の事を可哀想だと思って接する事が出来る今が僕にとって最高の幸せになっている。


成戸先輩のお陰で自らの手を汚す事なくこんな幸せを手に入れらるとは思わなかった。


「祐作さん、美味しくない?」


緑の言葉に僕は、「美味しいよ」と頷いていた。


「よかった」


緑は、嬉しそうに笑っている。


何も言わないけれど……。


何も聞かないけれど……。


僕は妻の裏切りを知っている。


僕にとって人生で最悪な出来事は、最高な出来事に変わった。


「愛してる、緑」


「愛してる、祐作さん」


僕は、緑を見つめて笑う。


これは、愛なのだろうか?


もしかすると、光太郎に勝つ為の……。





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