春編【櫻爾の春渡り】

第1話

 桜は、咲けばひととき絢爛けんらんに生き、短命でありながら、儚く散りゆくその姿は大樹であればあるほど見事である。


 桜は、死を経て生まれ変わる。まるで無限ループの時の輪から抜け出せないみたいに。

 それが、彼岸鳴ひがんめいが初めて桜という〝神様〟を見た時の感想だった。



 とても美しい牡鹿おじかが凛とそこに佇んでいた。

 薄桃色にじんわりと染まった角が、当時小学生だった鳴にとってどれだけ美しく映り、心奪われたか分からない。

 立派な角を左側に生やしたその鹿は、自らを「櫻爾おうが」と名乗った。


 神宿『彼岸屋』の地下には『奥の間』と呼ばれる、彼岸あのよ此岸このよを繋ぐ管理門が存在する。その管理門は大きな祠のような形状をしており、辺り一面には彼岸屋の名物とも言える彼岸花が年中狂ったように咲き誇っている。

 櫻爾がひとたび呼吸をすれば、少し水が張った池に小さな波紋を作りだす。

 彼岸屋と黄泉の国を繋ぐ門前、佇むその春の神様は、実にいつか見た桜の如く圧巻だった。

 春の世界に坐す最上位存在である櫻爾に両親が頭を下げたので、鳴も二人にならって頭を下げた。



「……おもてを上げよ、人の子よ」



 澄んだ空気のように爽やかな音だった。両親がゆっくりと顔を上げるのとは別に、まだ子供だった鳴はガバリ、と勢いよく顔を上げた。

 乱れた前髪から覗く、目の前にあった櫻爾の姿は、まさしく「春」を彷彿とさせるような柔らかい桜色の空気を身に纏っていた。


「この此岸に『』にお越しくださいまして誠にありがとうございます、櫻爾様」

「此度の浄化の旅も長いゆえ、また一月ひとつき程世話になる」

「承知しております。少しでも貴方様のお疲れが癒されますよう、彼岸屋一同、心よりの奉仕を務めさせていただきます」


 母親の言葉に微笑んだ櫻爾のあまりの美しさに、幼き鳴はずっとこのまま桜の神様に心を囚われていたいと思った。

 じーっと見つめていたのを気づかれたのだろう。不意に櫻爾が「これは?」と鳴のことを見て小首を傾げた。その問いに、鳴の母が答える。


「これに控えるは息子の鳴と申します。まだ未熟な子ではありますが、いつかこの彼岸屋を担う者でございます。ちょうどよい機会と思い、ご挨拶をと……。ほら鳴、こちらはこの日本に春をお届けくださる春の王・櫻爾様ですよ。ご挨拶なさい?」

「はい。……初めまして、春の神様。僕は彼岸鳴と申します」


 櫻爾がゆっくり鳴たちに向かって一歩踏み出す。すると不思議なことに、櫻爾のひづめから花が咲いた。一歩、また一歩と、櫻爾が踏み込む度に花が咲き、池の水も心なしか澄んでいくようだった。鳴たちのもとに辿り着いた頃には、櫻爾の背後には立派な花の道が出来上がっていた。


「すごい……」


 思わず鳴の口から感嘆の声が漏れる。

 そんな花道に感動していると、目の前に春の王である櫻爾が優しい微笑みを鳴に向けながら、


「鳴、と言うのか」


 と訊ねた。

 突然のことで驚き思考が止まるも、鳴は必死に言葉を探して返事だけは返すことができた。


「あ、はいっ」

「良い名であるな。……どれ、ひとつ花を選ぶがいい。好きなものをやろう」


 そう言うと櫻爾は鳴の目の前に自身の片角を差し出した。沢山の花が咲いたこの角の中から、好きな花をひとつ選んで摘んでもいいのだという。


「櫻爾様! それは……」

「〝桜花の誉〟……ではない。私は使、その力は無いのでな。申し訳ないがこれは贋品にせものだ。いつか、が目覚めた時には、本物を彼岸屋に届けさせよう」


 だから今はこれで許してくれ、と言った櫻爾の瞳は、迷子の子供のように潤み揺れていた。


「子は宝だ。昔も、今も。そなたら夫婦もこの子供を大切にされよ」


 そうして鳴が受け取った一輪の花は、暖かい色をしていたはずなのに、どこか悲しい色をしていたように思えた。

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