第2話
春の陽気がふわりと香る庭の縁側で、どうやら
懐かしい夢だった。
まだ彼の母が生きていた頃の夢だった。母の記憶はひと握りも無いが、彼岸屋の女将として立つ母の姿は凛々しかったと鳴は記憶していた。自分もいつか母のようになりたいと思った過去があるが、現在では思うようにいかず歯痒い日々を送っている。
季節は四月に差しかかる。この時期から日本では春が起き始め、桜前線が南から訪れる。
それは同時に、春の王が目覚めることを示唆する。
部屋に飾るカレンダーを目の端に移せば、赤い丸印が二つ記入されていた。
ひとつは、春の神様がこの彼岸屋へ来訪する予定日に。
そしてもうひとつは――晴の誕生日である。
「……鳴さん?」
不意に、旅館側から声をかけられた。まだ覚めきらない頭で声のした方へと視線を向けると、彼岸屋に入って日が浅いのだろう、若い従業員が緊張した面持ちで鳴の様子を心配そうに窺っていた。
(そういえば父さんがこの間、新卒の子を何人か採用したって言ってたっけ……)
などと心の中で呟き、ぼーっと若い彼を見つめていると、再び彼に声をかけられる。
「あの、大丈夫ですか? 気分が優れないようなら、誰か、お呼びしますが……」
きっと今鏡を見れば分かることなのだろうが、鳴の顔に血の気が通っていないことを、若い彼は心配しているようだった。
この彼岸屋に勤める者は入社後、まず始めに研修期間で鳴の体調面について教育を受けるらしい。彼は病弱体質なためにあまり旅館の仕事に顔を出せない。出せたとしても、何か体調に不安があればすぐに周りの者が助けるよう、そう教育を受けるらしい。
やっと意識が覚醒した鳴は、ふっと若い彼に安心させるような笑顔を見せた。
「……大丈夫です。お気遣いありがとう」
「い、いえ!」
若い彼は鳴の微笑みに、分かり易く顔を赤らめた。
「無理もない」――鳴を知る者は皆、口を揃えてこう言うだろう。
鳴は中性的な顔立ちをしており、微笑めば女性に見える。そして本人はそれを知ってか知らずか、あちこちに笑顔を振り撒き、そして有無を言わせないのだ。
「……そういえば、僕に何か用があったのでは?」
鳴が身なりを正しながら若い彼に訊けば、彼はハッとした表情をして、まだ新品同然の従業員服の懐から一通の封筒を取り出した。
「鳴さん宛てに手紙が届いていたので、お渡しするように言われて……。差出人は、四季……さん? です」
「……その手紙、頂いても?」
はい、と緊張して裏返った若い彼の声が可愛らしい。鳴は彼から手紙を受け取ると、「のちほど旅館に顔を出しますね」と彼に伝えた。用を済ませた彼はぎこちなく鳴の部屋を後にしたのだった。
◆◇◆◇◆
『四季』という人物からの手紙を半分ほど読み終えた頃、庭に予期せぬ来訪者が現れた。
「ぴちち」
「……あ。……うぐいす」
春の訪れを呼ぶ鳥が庭の彼岸花を
「……ごめんね。もう少しだけ、待っていてくれる?」
鳴はうぐいすにそう告げると、旅館に向けて歩き始める。
彼岸屋の春が、芽吹き始めた。
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