第2話

「————ッ」


 勢いよく目が覚めた反動で、くらりと視界が歪む。目覚めたはずの脳は白黒と点滅しており、重力に逆らえず、起き上がろうとすると世界が回るので体は枕へと逆戻った。

 段々と意識がクリアになってくると今の状況にどことなくを覚え始める。そしてなかなか冴えることのない頭を抑えながら、行実ゆきざねはるは息を整えながら現状把握を試みた。


 ここは、東京は新宿の裏通りにある、知る人ぞ知る名旅館『彼岸屋』。

『彼岸屋』は、あの世とこの世を繋ぐ狭間の入口——宿に位置しており、古くから読んで字のごとく『宿』としてこんにちまで営まれている。

 この旅館は日本国に信仰のある八百万やおよろずの神々が、黄泉の国から現世へ渡る際に途中で休息を得るための休息所でもある。そんな老舗旅館に宿泊しにやってくる神様を、現世でのお役目を果たす目的地へと送迎する『御神送おみおくり』の護衛官として働くのが、先程夢の世界から脱した晴であった。


 ◆◇◆◇◆


 昨夜もいつものように『御神送り』を終えた晴は、これからの予定に酷く気を落とした。苛々いらいらがなかなか治まらず、仕事終わりに一服する煙草の本数が倍になったほどだ。

 神宿『彼岸屋』の地下には『奥の間』と呼ばれる彼岸あのよ此岸このよを繋ぐ管理門が存在する。その管理門は大きな祠のような形状をしており、辺り一面には彼岸屋の名物とも言える彼岸花が狂ったように咲き誇っている。

 だがこの日、晴が向かった先は、この『奥の間』の、そのさらに深い場所へと続くだ。彼岸池、と呼ばれるその場所は季節を問わず一年中が咲き狂っている。この彼岸池に立ち入れるのは、原則、この神宿を管理する彼岸家当主である彼岸ひがんめいだけなのだが、唯一晴だけは特別例として立ち入ることを許されている。


 ◆◇◆◇◆


 足を進めるごとに、薄く張った池から靴の中へと水が遠慮なく侵食していく。季節は夏に差し掛かっているというのに、この場所は酷く寒く、足元の芯から冷えていく感覚に嫌気が差す。


「——ギャハ。今日もいつにも増して死人のような顔をしているなあ、晴?」


 嘲笑あざわらう高音が、晴の歩みを止める。妖艶な姿をした目の前のは、かつて彼岸屋によって封印された『烽火九尾のろしきゅうび』という狐の大妖怪である。


「……減らず口が……。今すぐその舌引き千切ちぎってやろうか」

「ギャハギャハ! どうやら虫の居所が最悪のようだ……おお怖い怖い」

「……さっさと終わらせるぞ」


 相手にするだけ無駄だと知っている晴はいつものようにその首元をさらす。妖艶な女狐『烽火九尾』こと、遠野とおのは面白くないという顔をしながらも自ら縛りを設けた契約を果たすため、晴の首元に絡みついていく。


 遠野の契約は、まるで目覚めの悪い逢瀬だ。ただ血を吸われ、意味も色気もない鬱血痕を付けられるだけの時間に、いったい何を感じればいいというのだろう。ただの作業と化したこの契約は、残りの命を吸い尽くすまで続くというのに。

 徹夜の体に無理をいた状態でこの血吸いを行えば、貧血を誘発するのは当然の話であった。くらりと視界が歪み、足元が、覚束おぼつかなくなる。


 遠野との逢瀬——もとい、契約の血吸いが完了し、晴はやっとの思いで自室へと戻った。

 ふと自室から覗く彼岸花の庭に、小さな子供のような影を見た。その一瞬、世界から全ての音が消え去ったような感覚に呑まれる。しかし瞬きをひとつすればその子供はすぐに消えてしまったので、疲れすぎて幻覚でも見てしまったのだろうと自らに言い聞かせると、そのまま体力の限界がやってきたところで晴の意識は途絶えたのだった。

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