第3話

 そうして昨日の回想が終了する頃には晴の眩暈は治まりつつあった。ようやく意識が完全にクリアになったところで、先程から感じていた違和感の正体に気付く。


「……そういうことか……。おい、起きろ、!」


 晴がいつの間にか掛けられていたブランケットを勢いよく剥がせば、鳴がすよすよと気持ち良さそうに体を猫のように丸めて眠っていた。寝苦しかった正体が彼が潜り込んでいたからだと分かると、晴はすぐに彼の体を自分から引っぺがそうと全力で揺らす。少し唸ると、色素の薄い彼の美しい瞼が静かに開いた。


「…‥んぅ……あ、おはようございます晴……」

寝惚ねぼけてんな。退け、重いんだよ」

「うう……あと五時間……」

「しっかり二度寝しようとすんな。ほら起きろ! 暑苦しいんだよ!」

「ちぇ、晴が優しくない」

「いい大人なんだから優しくしても」


 ふわあ、と布団から追い出された鳴は、わざとらしく声を出して小さく欠伸をした。一歩見間違えば女性とも捉えかねない容姿に、長年付き添っている晴でさえ時々ドキリとしてしまう。


 晴は布団を畳むとそれを抱きかかえて押し入れの天袋に仕舞い込んだ。部屋に飾ってある壁掛け時計を確認すれば、時刻は朝の八時を回っていた。そろそろ『彼岸屋』が起き始める時間である。ちらりと視線を横目に向ければ、鳴が眠たそうに目を擦っていた。

 謎にはだけた寝巻ねまきの浴衣が、彼のなまめかしさを一等際立たせている。あらわになる胸元に覗くは、今日も褪せることなく淡く燃えている。


 骨張った、細く白い肢体。その左胸には彼岸花が大輪を咲かせている。厳密にはそれは五年前の事故によって負った火傷痕であった。


 忌々いまいましくも思えど、晴にとって絶対に目を背けてはならない現実ものだ。少しだけ表情を歪ませたが、幸いにも鳴はまだ寝惚けまなこのようで、見られはしなかったことに晴はどこかで安堵した。


 今日もお天道てんと様はえらくご機嫌のようだ。照り続ける太陽に、梅雨入りだのなんだのと世間が噂しているのが嘘のように思える。じわりと寝巻に少量の汗が滲む感覚に、晴は再び表情を歪ませた。


 そろそろ支度をしなければ。晴は鳴の背中をぽんと軽く叩いて、自身の着替えをクローゼットから取り出す。

 薄手のカッターシャツに夏仕様のベスト、クールビズ対策だなんだと売り出されていたスーツズボンに藍色のネクタイ。

 今日のコーディネートは決まりだなと一人満足していると背後に視線を感じた。振り返れば、鳴がじーっと晴を——正確には、寝巻を脱ぎ始めて上裸になっている晴を見つめていた。


「……なんだよ」

「いいなあ。僕も筋肉欲しい。晴みたいに男らしくなりたいです」

「……食って食って食いまくって適度に運動すりゃあ自然とこうなる」

「そうなんですか? じゃあ頑張ってみようかなー。僕が細マッチョになったら、もっと従業員のお手伝いができますものね!」


 目をキラキラと輝かせて、鳴は晴に勢いよく迫った。あまりの勢いに思わず晴はたじろいだ。しかし驚いたのはほんの一瞬で、晴の脳はすぐに鳴の『細マッチョ』というキーワードを認識した。細マッチョになった鳴がどうにも想像できない。話半分に聞きながら、晴は考える。


 しなやかな肢体に細く長い指、総合して女性的で華奢な鳴に対し、晴はがっしりとした、しかし太ってはいない成人男性の理想体型を持っていた。


 ——もし本気で細マッチョになろうとしていたら……。


 ああ、考えただけでも怖ろしい。

 止めよう。絶対にそれだけは阻止しなければ、と晴はこの時心に強く誓ったのだった。


 ふと何かを思い出したのか「ああそうだった!」と鳴が声を上げた。カッターシャツのボタンを全て止めてから晴は鳴の言葉に耳を傾けた。


「なんだよ」

「今日は僕も晴も仕事はになったんでした」

「…………は?」


 ネクタイまで締めてから、そんなことを告げられても困る。晴の思考はブレーキが掛かった自転車のように急停止した。


「ですから、僕と晴は今日と明日の二日間お休みを……」

「は? 店は? 『御神送り』はどうする」

「そこはご心配なく。ちゃんと父さんにお願いしておきましたから。……というか父さんが有休を消費しろって煩いんですよ」


 有休取得は国民の権利ですからね、と開けていた浴衣を正しながら鳴が言う。まるで思考が追いつかないまま、晴は静かに頷いておく。


「そう、か。まあそうだよな」

「それでね、折角の連休ですしどこかに泊まりがけで行きたいなと思っていて……ここに行きたいんですけど」


 そう言って鳴は一枚のチラシを晴に見せる。それは奈良県の方で開催されるという『雨乞祭あまごいさい』のチラシだった。雨乞祭は明日、ある神社で行われるらしい。確か奈良県には『丹生川上神社』という竜神を祀る神社があったはずだ。


「……ん? 休むんだよな?」

「はい。そうですよ? なんで?」

「いや、雨の神を祀る神社があるよなと思って」

「たまたまですよぅ。……あれ、違うのかな。もしかして僕、父さんにめられた?」


 どうやらこの夏祭りのチラシは鳴の父、彼岸宗純から受け取ったらしい。季節は六月中旬を過ぎた頃だというのに雨の「あ」の字も見えないので、もしかしたら迎えに出向けという意図なのかもしれないと晴は少しだけ疑ったのだ。

 しかし息子一番の宗純のことである。ただ単にこの夏祭りに行かせたかったということも大いに考えられた。考えすぎかもしれないと、晴は少しでも疑った自分を情けなく思った。


「……まあ、お前があまりにも家に篭り続けているもんだから心配になったんじゃないか? 今更っぽくも思うが、お前を元気付けたくてその祭りを教えてくれたんだろう。俺も同じ立場なら提案する」

「そういうものですか?」

「そういうもんだな」

「……過保護過ぎませんか?」

「通常運転だろ」

「それもそうですね」

「少し遠いが、行くか。宿泊場所はもう決めてるのか?」

「いえまだ。この話をもらったのが昨日の今日だったから。今から良さそうな場所を探して予約してきますね!」


 そうと決まれば! と鳴は先程までとは打って変わって溌溂はつらつとした表情をして晴の部屋を出て行った。あんなに楽しそうにしている鳴を見るのはいつ振りだっただろうか。元気な姿に晴の表情筋は思わずほころんだ。

 どうせなら久し振りに車でも出そうか。二日間もあるんだ。たまにはではなく、現代の最先端技術でも駆使して長距離ドライブも悪くない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る