私のことを忘れてください

田山 凪

第1話

 人は死ぬとどこへ行くのだろうか。漠然と考えてしまう。思春期の未熟な問いかけではなく、本当の答えを知りたい。私はこれから、どこへ行くのですか?



 突如として告げられた余命宣告。

 体も精神も正常だと思っていたのに、急にそんなことを言われても理解が追い付かない。夢を見ているような浮遊感。しかし、お母さんのむせび泣く声が私を現実へ連れ戻す。お医者さんは私が診察室に来る直前まで、いや、私を目の前にした時もまだ話すべきかを考えていたと思う。威厳を持ち、自身の知恵を信じる医者が私を目の前にした途端、拳銃を突きつけられたように動揺をしたのはまだ記憶に強く残っている。

 ほんの少しだけ悦に浸った。私は何かを成しえられるほど優秀な人間ではなかったから、自分よりも頭が良くて、優秀で、いろんな人を救って助けてきたこの人を驚かせられたのはちょっと面白かった。

 お医者さんは私の反応を織り込み積みだったのだろう。死を宣告された人の反応は大きく二つだ。死という終着点が見えてしまい、悲しみに暮れる者。私のように、死という終着駅がアナウンスされているのに、今だ窓の景色を眺めている者。

 これから起こる心情の揺れに対して少し話を聞いた。それは唐突に襲って来るらしい。夜中、目が覚めると暗闇と静寂が死を連想させる。テレビやネットで死を連想させるワード、死そのものを扱った記事や作品を見ても深い絶望に落とされる。

 私は思った。この人もたくさんの最後を見てきたのだろうって。お医者さんの風貌は寡黙で髪がてかるぐらいきっちりまとめてて、分厚い眼鏡と少し重たい唇。白衣でなくスーツを着せたら厳格な国語教師、和装をさせたらベテラン棋士、国会議員や警察にも見える。要はどこにでもいる若者とは相容れないタイプのおじさんだ。

 そんな人が、今私のことで頭をいっぱいに巡らせている。おかしな話だよ。どこにでもいる普通の女子高生である私が、いま人の頭の中でいっぱいに広がって、相手を困らせている。本当におかしな話だ。


 現状、私自身が苦痛に感じる異常はない。学校へ通うこともできる。ただ、いずれはそうじゃなくなるのは明白だ。それが一年先か、半年先か、一か月先か、一週間先か、明日か……。

 いつものように夕飯を食べているのに、重たい空気がダイニングキッチンを支配していた。原因が自分だなんてわかっている。だって、家族が余命宣告されたんだから笑顔で食卓を囲むなんて普通はできない。

 隣に座る小学六年生の妹が、コップに手を伸ばした私の手に優しく触れた。その手は震えている。少しずつ世の中を知り始めてそれでもまだ無知な幼い手が、どうしようもない現実を知らされてショックを受けていた。私よりもショックを受けていただろう。

 

「ごはん食べよ」


 私はそう言って妹の頭を撫でた。妹は小さくうなずく。


 二階の部屋でいつも通りにベッドで寝ていると、ふと目覚めた。まだ、死を感じていない。私は喉が渇いて一階へ行こうと階段を下りていると、リビングには電気がついていた。時間は把握していなかったがすでに夜中だったと思う。

 お父さんとお母さんが私のことについて話している。柔らかい生地のスリッパを履いているため、二人は私が降りてきたことに気づいていない。

 話している内容はなんとなくわかった。はっきりと聞こえたわけではないけど、私に対して心配をかけさせないよう、私を不安にさせないよう、最後のその時まで支えてあげようということは漏れる言葉から伝わって来た。

 私の家は平均的な家だと思う。一軒家は二階建てで、車は二台、四人家族、祖父祖母共にいまだ元気。従妹とも仲が良いし、年末は集まって、家族旅行も行ったり、とても平均的だ。

 そんな家での生活は、私にとってあたりまえの日常だった。両親と喧嘩することもあった。今思えば些細な喧嘩も少なくない。妹とも喧嘩はした。だけど、仲は良い方だ。

 私の誇れることは人に迷惑をかけることをほとんどしたことないことだ。あくまで、私の主観にはなるが、物を盗んだり、誰かを叩いたり、ルールを破ったり、そんなことはしていない。

 そのおかげもあってか、先生からの評価はそれなりにいいもので、小学校から高校までずっと同じ友達が側にいてくれている。コミュニケーションは苦手ではないし、運動は凡才といったところ。

 何もかもが普通な私に、唯一普通ではないこと、それが余命宣告だった。


 朝を起きてキッチンへ行くと、お母さんが弁当を作っていた。お父さんはすでにいない。でも、いつもより早く妹が支度を済ませて椅子に座っていた。よく見ると少しだけ目が赤い。

 私は妹に、早起きなんてめずらしいねって声をかけた。すると、いつもの調子で妹は、そっちこそ寝坊助になったんじゃない? と小生意気に言った。確かに時計を見てみるといつもより起きるのが二十分ほど遅い。だけど、妹がいつもより早起きなのは変わらない。

 私はもろもろの準備を済ませ再び戻ると、どうやら妹と母親はずっと話していたようだ。私は何気なく椅子に座り、手を合わせ食事を始めた。何も特別ではない。妹が普段より早起きというのを除けばいつもの日常。

 

 通学路も、教室も、何も変わりはない。

 変わったのは私の肉体。いや、以前から兆候があったからこそのいまだ。昨日今日でかわったわけではない。席につき鞄の荷物を机へ入れていると友人が二人やってきた。

 朝の挨拶の次に大丈夫? と問いかけられた。そういえば連絡を返してなかった。昨日、唐突に私は倒れたのだ。友人の一人が倒れる私の体を支え、もう一人が先生へ迅速に知らせた。体育中のグラウンドでの出来事だ。

 そういえば、今日は人とよく目が合う。そうか、昨日の出来事は私が思っているよりも周りの生徒たちに強い印象を与えてしまったらしい。だから、心配や興味か、少なからず私へと意識が向いているのだ。まぁ、それも今日だけだろう。私が今日一日普通に過ごせば、誰も興味の対象にはしなくなる。悲観しているわけではない。注目されるのは得意じゃない。反応に困る。私は普通であることを嫌っていない。それでいいと思っている。ただ、確実な死へと向かう中、多少たりとも何かをするべきかと考えてしまう。

 以前、映画で見た。老人二人が余命宣告をされ、たまたま同じ病室になった二人はどうせ死ぬならと好きなことをすべてやってしまおうと考え実行した。長い人生経験からだからこそやりたいことはたくさん見つかり、安定のために捨てた選択肢もあったからこそ死ぬ間際にやってやろうと思えたのだろう。だけど、今の私の浅い知識と少ない経験では、この箱庭で普通に暮らすこと以外に特別望んでいることはない。

 強いて言うなら、それが長く続いてほしかったこと。でも、それを切に願うほど思いはまだ強くない。いまだ、死を実感できずにいた。


 桜が散り、新入生も高校生活に慣れ、鬱陶しい梅雨の時期がやってくる。

 初めてお医者さんに宣告された時よりも、私は穏やかな精神状態を保っていた。肉体的な異常がないためであろう。だが、お医者さんは言っていた。急に日常が困難になる可能性がある。それはいつかわからない。人は病気を治し寿命を長引かせることにできたが、いまだに正確な命日までは予測できないらしい。

 私にとってそれは好都合だった。物語の終わりが見えていると寂しくなるから。

 ……ああ、そうか。それは死に対する絶望に似ているんだ。愛してやまない物語が唐突に最終章へと向かう。その告知はあまりにも非情だ。でも、いつか終わりは来る。なのに、どこかでずっと続くんじゃないかって勘違いしてしまっている。それは命も同じなのだ。

 私は、友人たちに自身の余命を伝えてはいない。それはきっと彼女たちにとって心配ごとになってしまうからだ。小学校のころから一緒に遊んで、変わらない日常が続く。そんな彼女らに余計なことを植え付けたくない。

 二人からよく言われたものだ。私といると落ち着くと。嬉しい言葉だ。なろうとしてなったわけじゃない。妹の世話をしているお陰で身に付いたのだろう。二人に対して、妹のように世話を焼いてしまう時がある。嫌じゃない。むしろ、楽しいとさえ感じる。


 その日は突然訪れた。何もかも突然なの一年だ。つくづくそう思う。何気なく、本当に何気なく、冷蔵庫に入っていたお茶を取り出しコップに注いでいると、私の手は突如として力を失った。寝起きの体の重たさに似ている。手から離れたお茶はコップを倒し、コップは床へと自由落下していく。まるでスローモーション。落ちていくお茶の雫と溢れる滝のような流れに、私はただじっと見つめるほかなかった。体が追い付かない。驚くことさえなかった。

 あれ……と、とぼけた幼子のような声が出る。すぐに母親がやってきて私の身を案じた。だけど、それに気づいたのは落として少ししてからのことだった。

 あとから妹に聞いたが、私は一分ほどぼーっとしていたらしい。そんなに長く……。

 私自身気づいていなかったが、ここ最近私の反応が遅れているというのだ。それに、虚空を見つめている時間が増えたらしい。正直、私自身まったく自覚がない。徐々に肉体が異常を示し始めている。

 いずれ、これが恐怖に変わる時が来るのだろう。だけど、それはいまじゃない。まだ私は普通に過ごすことができる。普通の日常を送ることができる。何も変わっちゃいない。私はまだ、私のままでここにいる。


 じめじめとした季節が過ぎ、太陽の日差しが肌を焦がす。いつもの通学路を歩く中、私は肉体の疲労を感じていた。息が上がりやすい。喉が渇く。水筒を取り出し一口飲んで、私はまた歩き出した。普段なら十五分で歩ける道のりを、私は二十五分、時には四十分かけて歩くようになっていた。

 ある日、私自身はいつも通りに歩いていたはずなのに、周りがとても早く感じてしまう不思議な状況に遭遇した。青信号だ、渡ろう。そう思った時、後ろから誰かが私の手首をつかんだ。振り返ると、そこには友人の姿があった。慌てた表情で息を切らしている。私は小首をかしげ小さく笑った。だけど、友人は何してるのと強い口調で言った。私は、渡らないと遅れちゃうと返事をした。友人は少し悲しそうな表情を浮かべつつ、信号を指さした。すでに、信号は赤になっていた。目の前を車が通りすぎていく。もし、私が一歩踏み出していたなら、夕方のニュースにでもなっていたことだろう。

 世の中が早くなったんじゃない。私自身がどんどん遅くなっている。

 友人は私と手をつなぎ一緒に登校した。

 私は、たぶん遅れちゃうよと言うと、友人は、一緒に遅刻すれば怖くないでしょって言った。よくわからないが、今は友人の手がとても心強かった。私は私自身の認識している世界を信用してはいけなくなっている。たぶん、私よりも小学生の子どものほうが俊敏に知的に判断できるのではないだろうか。そう思えるほど私の体や認識力は劣り始めていた。

 その日の放課後、友人とカフェに寄った。そこで、私は真実を言うことに決めた。卒業まで何もなければそれでいいと思っていた。だけど、このままじゃ余計な心配ばかりかけてしまう。現に、今日一日友人二人は私のことを不安げにみていた。

 真実を伝えた二人は、さすがに予想外だったのか驚くというよりも私がおふざけでそんなことを言っていると思って笑った。だけど、私が笑わず平然ともう一度言うと、それが現実なんだと知り、激しく動揺した。

 これが嫌だった。二人にこんな表情をさせたくなかった。きっと、心配されるとわかっていた。いい友人を持ったとも言えるけど、いい友人だからこそ、最後まで知らせたくはなかった。家族にだって本当は知られたくない。だけど、それだけは回避できない。どうせ死ぬのなら、どこかでひっそりと、静かに死んで、あとから発見されたかった。

 しばらくして友人の一人が言った。


「入院しなくていいの?」


 私は答える。


「普通の生活ができなくなったら、入院しなくちゃいけないと思う。だけど、それはいつかわからない」


 もう一人の友人が言った。


「いつまで……?」


 それは、私がどれだけ生きれるかという問いだ。


「来年は、あの鬱陶しい蝉の声を聞けないかも」


 私は窓の外を見ながら曖昧な返事をした。

 だけど、友人二人はそれを理解した。私にとって、今年が最後の夏かもしれない。

 

「まだ体は大丈夫なんだよね? どこかへ行ってもいいんだよね?」

「うん。激しい運動はできないけど」

「じゃあ、行こうよ。お祭りとか花火とか、海とかさ」


 友人は瞳をいっぱい潤ませ、こぼれそうな雫をなんとか堪えながら言った。

 じーっと、二人が私のことを見ている。たぶん、反応が遅れている。徐々にそれがわかってきた。


「うん、楽しそう。行きたいな」


 二人は早速計画をたて始めた。

 私のお母さんに電話をして、事情を知ったことを話し、その上で最後の思い出を作りたいと訴えた。お母さんは多少渋っていた。それもそのはず。私がどんどん衰えていっている姿を身近で見ているのだから。だけど、友人とお母さんはしばらく話した後、電話を終える。


「妹ちゃんを一緒に連れていってほしいって。あの子にとっても、お姉ちゃんとの思い出を作る最後の機会だからって」

「いいの?」

「もちろんだよ。四人でいっぱい遊ぼうよ! いっぱい楽しんで、いっぱい写真を撮って、あとでみんなで思い出しながら写真を見てさ……」


 そこに、私はいないかもしれない。


  夏休みやってきた。刻々と私の時間がなくなっているのを感じる。ここがあなたの終わりだと、明確に点を打たれているわけではないけど、死に進む身として、そこへ進んでいる感覚はわかる。

 目覚めた時、すでに外は明るくてなっていた。側には妹が立っている。何度も私に声をかけて起こしてくれていたらしい。でも、私はすぐには目覚めなかった。まったく反応しない私を見て不安に思ったのか、妹の表情は今にも泣きそうなもので、起きた私に大丈夫? と一言問いかけた。

 私はゆっくり立ち上がり妹の頭軽くなで答える。


「大丈夫。まだ、大丈夫だから」


 支度を済ませるとお母さんが駅まで送ってくれた。


「何かあったらすぐに連絡してね」

「うん。わかってる」


 私の返事に対し、お母さんは心配そうに見ていた。だけど、すぐに表情を作って手を振り、車を発進させた。その姿を見送って駅の中に行くと、友人が二人待っていた。私の妹は少し緊張した風に軽く会釈し、友人二人はまるで自分の妹のように優しく、気楽に接し、妹の緊張も徐々に和らいでいく。

 私の体は疲労が溜まりやすく、過度な運動はできない。だけど、見ているだけなら普通の体だ。弱い体になったが、日常生活に大きな支障が出るレベルではない。特に、ほかの人といるならなおさら問題はない。

 私たちは海に向かった。広いビーチには多くの人がいて、楽し気な声がよく聞こえる。持ってきたシートのすぐそばに、借りてきたパラソルを立てる。私はそこで一人休憩していた。ただ移動するだけでも運動した後のような疲労を感じる。少し目を瞑ってうたたねでもしてやろうかと思ったら、知らない男性が声をかけてきた。日焼けした肌に下品に染めた髪。首からはセンスのないネックレスを下げている。


「君、一人?」


 そういう男性の少し後ろに同じくらいの歳の男性が嫌な笑みと猿のような笑い声をあげている姿が見える。友人や妹は今食べ物を買いに行ったばっかだ。まだすぐには戻ってこない。どうしたものか。


「ねぇ、こっちで遊ぼうよ」


 驚かせてやろうと意地悪なことを思いついた。


「あの……」

「何?」


 思ったよりも強い声が出なかった。でも好都合だ。


「私、病気で。余命があと――」


 それを聞くと男性は戸惑いの色を極端に表した。


「だから、最後の夏。友人や妹と楽しく遊びたいんです」

「……ご、ごめん。その、がんばってな」


 男性は自身の友人たちの下に戻ると、その話をしたのだろう。後ろで笑っていた人たちは申し訳なさそうな表情をし、頭を下げてどこかへ行った。あれがナンパというやつなんだろう。初めてされた。体育もまともに出ていない私の肌は、色白で日差しで溶けてしまいそうな状態。目につくのは仕方がない。

 ほどなくしてみんなが戻って来た。大丈夫だった? とか、何もなかった? と問いかけられたものだから、私は笑顔で答えた。


「うん。何もなかったよ」


 また別の日にはみんなで宿題をして、ショッピングモールに行って、ゲームセンターも行った。疲労が溜まる私の体を案じて、何度も休憩をさせてくれる。きっと、表情にも出ていたのだろう。

 夏の終わりには大きな祭りにも行った。お父さんとお母さんも同行し、見守られながら私たちは浴衣でいろんな屋台を巡った。祭りの終わりにはたくさんの花火が空へとうちあがる。真っ暗な空に、大きな花びらが舞い踊る。

 私の手を握る妹の手が自然と強くなっていた。私は自然と言葉が漏れた。


「綺麗だね」

「……うん」

「どうしたの?」

「……消えていく花火はどこに行くのかなって」


 妹は、消えゆく花火と私の姿を重ねていた。

 

「どこへ行くんだろうね。私も知りたいな」


 夏休みが終わり、また高校生活に戻る。

 ホームルームの時に私が残りわずかであることがクラスの生徒たちへ知らされた。私はそれを望んでいない。だけど、両親が心配して少しでも学校で安心して過ごせるようにと、先生へと伝えるようにお願いしたのだ。ずっと体育を出ていなかったから、病気なんじゃないかと噂をされていたが、想像を超える現実にクラスがどよめいた。私はこんな時も少し反応が遅れて言った。


「迷惑をかけるかもしれませんが、何かあった時、助けてくれると嬉しいです」


 死ぬことなど意識をすることのない高校生が、身近な死を認識し少しずつ私と話す機会を増やした。そこまではしなくていいと思ってたいけど、案外知らない人でも、何かしてあげたいという善意が働くのかもしれない。

 

 美しい紅葉が落ち始め、枯葉が舞う季節。私は、遅れて教室へと入った。いつも通り後ろの席へと座ろうとすると、突如として体が落ちていく。後ろの壁に手を突くがそのまま正面から倒れ、友人がすぐに駆け付けた。


「大丈夫、そんなに心配しなくても」

「で、でも……だったらなんで鼻血を出してるの……」


 気づかなかった。倒れた拍子にぶつけたわけじゃない。自然と血が垂れていた。

 先生が教壇から駆け付け、男子生徒がほかの教師を呼びに行き、女子生徒がハンカチで私の顔を拭き、友人が体を支えながらお母さんへと電話する。

 教室は騒然としていた。


 私は、それから入院することになった。

 もう、終わりが近いのかもしれない。

 終着駅はもうすぐそこだ。

 荷物を片付け、降りる準備をしないと。


 病院での生活はとても退屈だった。

 時間は進まない。

 かといって運動もできない。

 勉強をする意味もない。

 毎日、見舞いに来てくれる家族の姿が、日に日につらい表情になっていくのが見てられない。

 私は私が死ぬことに対して、無頓着なのに、周りの人たちは私以上に私の身を心配してくれている。それが申し訳ない。


 このまま病院で終わるのは嫌だ。

 最後に、また学校へ行きたい。


 再び桜が町を彩る季節がやって来た。

 私は、体育館に並べられた椅子の一脚に座っている。

 そう、今日は卒業式だ。

 生徒が卒業証書を受け取り、私の番がやってきた。

 立ち上がり、友人の姿をちらっと見てみた。心配そうに私を見つめている。私は、なんとか小さく笑みを作り、心配させまいとした。そして、歩き出し、校長先生の目の前へ向かう。私は最後だ。歩くのが遅いから最後にしてもらった。ゆっくりと歩く姿をいろんな人たちが見守る。

 ゆっくりと階段を上がり、校長先生が心配そうに見ている。私はうなずいた。

 そして、卒業証書をもらう。階段を降りようとした時、強いめまいが発生した。一人で席まで戻りたい。なのに、無慈悲にもめまいは私の体を揺らし、舞台から落とそうとする。友人や先生が走ってきて私の体を支えた。


「……もう一人じゃだめなんだね」


 悔しくなった。

 一人じゃもう、紙一枚受け取ることもできない。



 これが最後の願い。

 私は、町を見下ろせる丘の上に咲く桜の木の下へ連れて行ってもらった。

 卒業証書を受け取りにいくよりも遥かに長い階段を何とか一人で昇りたかった。

 みんなに無理を言って、最初は一人でがんばってみた。

 思いのほか足取りは軽かった。階段を何とか昇り、桜の木へと向かって、立派な幹に背を預け座った。強い風が吹き、桜の花びらが町の方へと舞い散る。まるで、私の人生の終わりを告げるようだ。

 大きな町で私は何の特徴のない一人の女子高生だった。

 壊れていく体では、もうあの町を歩くことはできない。

 ようやく、悲しみが込み上げてきた時、妹がやってきた。なぜか妹は中学校の制服を着ていたのだ。私の隣に何も言わず座る。


「……大きくなったね」

「まるでお母さんみたい」

「……そうかな?」

「お姉ちゃんはさ、いつもみんなのことを見ててくれたよね。お母さんやお父さんの帰りが遅い時はずっと私の相手をしてくれたし、お友達ともいつも仲良くてさ」

「……みんなの楽しそうな姿が好きなんだよ」

「だから、泣かないの?」


 その通りだよ。だけど、私は答えなかった。


「……立つの手伝ってくれる?」

「もちろん」


 一度座った体は、一人で立ち上がるにはあまりにも重かった。

 妹の肩を借りて私が十八年間住んできた町を眺める。

 本当に本当に、普通の子どもだった。

 これといって特徴もない。誇れるところもなかった。


「お姉ちゃん、二人が来たよ」


 友人二人も私の側に来てくれた。

 二人は泣きながら私に抱き着いた。それを見た妹も我慢していた涙をこぼす。三人の泣き声が今の私にはどこかおぼろげに聞こえる。私から音さえも奪うのか。

 私は、なんとか腕をいっぱいに広げ、三人をまとめて抱いた。

 

「……私ね。もう、視界がぼんやりしてて、音もよく聞こえなくなってきたの。だから、私の最後の願い。聞いてくれる?」


 三人は強くうなずいて私を見た。


「どうか、私のことを忘れて、みんなの世界に戻って」


 三人はなんでそんなこというのかと驚いた表情だった。


「私は、誰かの心の足かせになりたくない。みんなが元気に大人になってくれたら、私はそれだけで満足なの。だから、私のことを忘れて」


 三人とも首を横に振った。


「そんなことできるわけないでしょ! だって、友達じゃん!」 

「一緒に遊んで、写真も撮って……。私たちが覚えている限り、一緒に大人になれるよ」

「お姉ちゃん、残された私たちはお姉ちゃんのことをずっと忘れたくない。例え、いつかこの苦しさが落ち着いても、桜の季節になったら、お姉ちゃんから会いに来てよ」


 わがままな子たちだ。

 ゆっくりと寝かせてくれてもいいのに。

 だけど、私は唯一誇れることが出来ていた。

 こんなに素敵な友達と家族に囲まれて、心配して泣いてくれてる。

 私の人生、何もできなかったと思ってたけど、これだけで満足だよ。

 

「桜が舞い上がっていく……」


 三人は風で舞う桜の花びらをみつめた。

 意識が遠くなっていく。まるで、桜の花びらと共に私の意識まで空へと舞い上がるような浮遊感。

 人は死ぬとどこへ行くのだろうか。結局、その答えはわからない。だけど、行けるところまで行こう。桜の花びらと共に舞い上がりながら、誰も見たことのない空へ。そして、みんなを見守ろう。大切な人たちが大人になっていくのを見れたら、私はもう、ここに居る必要はない。


「……みんな。ありがとう」


 私の意識は、空へと消えていく。

 わずかに声が聞こえる。わずかに何かが見える。体が揺れている。 

 でも、それらもすべて、消えていった。

 

――――

 

 私はあの丘へ向かった。

 桜の木はあの日と変わらず立派で美しい姿で迎えてくれた。

 スーツ姿の私はこの場所に似つかわしくないように思えたが関係ない。

 ただ、その姿を見せたい人がいた。


「しばらくぶりだね。たぶん、いるとしたらこっちだと思ってさ」


 誰もいないはずの丘で私は一人語り掛ける。


「お墓にもちゃんといったよ。でも、お母さんたちが綺麗にしてたから線香だけあげといた」


 こみ上げてくる感情をなんとか抑えようとしたけど、声の震えだけはどうにもできない。


「気づけば大人になってて、その生活に慣れていってさ。辛いこともあるけど、忘れなかったおかげで頑張れてる」


 返事はない。


「心が折れそうなこともあった。悲しいこともあった。でも、そんな時にいつだって思い出して立ち上がって来たの。だから、堂々と言わせてもらうよ」


 私は、心の底から伝えたいことを言った。


「お姉ちゃん、ありがとう。私は立派な大人になれたよ」


 その時、制服姿のお姉ちゃんが、そこに立っているような気がした。

 あの時のままの姿で。

 

 

 

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私のことを忘れてください 田山 凪 @RuNext

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