第六章 サンドラとアーシャ 後編 幼すぎるプロポーズ

    追憶



 少年のアストリアと奴隷女のセレナは仲良しになった。


 奇妙な関係だった。

 セレナを奴隷にしたのはアストリアの父なのである。


 セレナは仕事を早めに終わらせてアストリアと話をする時間を作った。

 アストリアは騎士見習いの学校が終わると真っ先に家に帰った。

 セレナに会うために。


 奴隷商人が息子を騎士学校に通わせていることは街中の笑いものだった。


 騎士学校が終わりアストリアが館に帰るころには、セレナも夕食の支度の前の時間の隙がある。


 少年と奴隷女はふたりきりになれるところを見つけて逢瀬を重ねるのだった。


 ふたりは草むらに座って話していた。

「坊ちゃん、今日はどんなことがありました?」


「………」

 アストリアは不満そうだった。


「坊ちゃん、どうしたんですか?」

「………」


「なにを怒ってるんですか?」

「ボクのことアストリアって呼んで」

「えー、困ったな」


 奴隷が奴隷主人の子どもを呼び捨てにしたらどうなるか、アストリアにはわかっていなかった。

 それどころかセレナの反応に怒っていた。

 最後には涙を堪えていた。


 セレナはキュンとした。可愛い……


「じゃあこうしましょうか。ふたりきり、本当にふたりきりのときだけアッシュって呼んであげます」


「アッシュ?」

「アストリア・ウォルシュだから短くしてアッシュですよ。瞳の色だって灰色アッシュだし」


 アストリアは肌や髪は親譲りの濃い色だったが、瞳だけは両親のうち誰とも似ていない灰色だった。


「……? ふーん? なんかカッコイイ!」


 セレナはアストリアの頭を撫でてやった。

 子犬みたいにからだを寄せてくる。


 危険な言葉遊びである。

 誰かに知られたら処分されるかもしれない。

 しかしセレナは背徳的な悦びを感じていた。


 そのとき、緑色の羽をした蝶がひらひらとセレナのまわりを舞った。

「キレイだ……」

 アストリアははじめて見る蝶に心うばわれた。


「蝶は長く生きられないから精一杯生きられるのかもしれませんね。わたしはあの蝶みたいに一瞬でも自分の羽で飛んでみたいな」


 セレナの瞳は悲愴感で壊れそうだった。

 自分の運命さえ自分で決められぬ奴隷の哀しみがそこにあった。


 アストリアはそんなセレナの思いも知らず、息もはずんで話しかけた。


「ボクも一緒に蝶になるよ!」

 アストリアの眼はわくわくでキラキラしていた。


「はい?」

「空を飛ぶのは楽しそうだ! セレナの故郷ふるさとまで飛ぼうよ! ずっと一緒だよ! セレナ」

「ふふっ」


 セレナは優しい顔つきをして、アストリアの頭を撫でた。

 幼すぎるプロポーズだった。蝶が大陸を横断できるわけはない。

 だが、セレナの眼の悲愴感は消えていた。


 そのとき、いつからいたのか、もう一頭の蝶が最初の一頭のまわりを飛んでいる。つがいの蝶だろうか。


(一度抱きしめただけで、しっぽを振ってくる子犬ぐらいに思っていたのに。かわいく思えてきた)


 不意にアストリアはセレナの髪をかきあげて、隠れがちな右眼をあらわにした。

 セレナの両眼の虹彩は明るいブルーだった。ただし、魔力はない。


「あ……」

「キレイな眼だね」

 セレナは赤くなってしまった。


「どうしていつも隠してるの」

「それは、なんとなく安心するから」

「そうなんだ」

「でも、そうですね。髪をあげてみるのもいいかな」

 セレナはそういったが、結局髪をあげることはなかった。


 ただ、アストリアとふたりきりの時は少し髪をいじって眼がはっきり見えるようにしたのだった。




 次の日の朝、クレリアが起きるとサンドラはもう起きて食事の支度をしていた。


「起きたのかい。男どもを起こしてきておくれ。アーシャはそのままでいいよ」

 クレリアの隣で寝てるアーシャはまだ深い眠りの中にいた。


 クレリアはアストリアたちが寝ている部屋をそっと覗いた。

 アストリアが一番手前に寝ている。


 クレリアはアストリアの前髪をそっと引き上げて、隠れている額を見た。

「あっ」


 額にかけて大きな傷があった。

 ライナスの魔法で傷つけられた魔障だった。


 クレリアにはそのことを知るよしもない。

 なぜかクレリアはドキドキした。秘密を覗いた気分だった。


「セレナ……」

 アストリアが微かな寝言をいった。


「セレナって誰だ!」

 クレリアは心の声が表に出た。

 その声でアストリアは起きてしまった。


「わっ、なんだおまえ。まさかオレの寝込みを襲おうと……」

「そんなわけあるか! ――セレナって誰ですか」


「誰に聞いた!?」

「自分でいってましたよ? 寝言で」


 アストリアは前髪を掻き揚げるように頭を抱えた。

 額の傷が見える。


「オレの初恋の人、もう死んだ」

「………」


 クレリアは申し訳なさそうにアストリアをじっと見た。

 眼が謝罪の意を表していた。


「おまえが気にすることじゃない。もう何年も前だ……忘れられないオレが悪いんだ。でも、あまりにも悲しい死に方だったから」


 アストリアは、クレリアがさらに悲しそうな顔をしているのをハッと気づいた。


「もうこの話は止めよう、な」

 クレリアの頭を撫でた。


「あっ、もう勝手に頭触って。……訊きたいことがあります。その人の髪の色は?」


「なんでそんなこと聞くんだ? ……金髪だったけど」

「へぇー」

 クレリアは面白くなさそうである。


「なんだよ。文句あんのか」

「なーんにも。ごはんですよ。ほかの人も起きてください」


 全員が起き、食事になった。

 サンドラは尋ねた。


「あんたたち、どこへ向かってるんだい。旅をしてるんだろ」


 アストリアはフランクを見た。

 最終目的地はフランクしか知らないし、当面の目的地さえ口外してはいけないのだ。


 アルフレッド、クレリアの視線もフランクに集中していた。

 そうなることを待っていたように、フランクは話し出した。

「トルハン山脈を越えるつもりです。アロンファクス山を越えて」

 全員初耳だった。


 アロンファクスは険しい山ではなく、また最短ルートで隣国に行くには妥当なはずだった。


「それはやめたほうがいい。盗賊のアジトがあるんだ、これは確かだよ。麓の村? とっくに人なんか住んでないよ。やつらのせいでね」


 サンドラは顔色が悪くなった。

「アーシャ、ちょっと向こうの部屋行ってな」


 クレリアがアーシャを連れて出ていくと、扉を閉めたのを確認してからつづける。


「わたしの旦那もそいつらに……。自分たちのことを貴族の蛇ノーブル・スネイクとか名乗っているけど、みんな毒蛇ヴァイパーって呼んで恐れている。いまは親分が替わったらしい。そいつの名前は知らないけど、残忍なやつさ」

「それ以外になにか知ってることはありますか?」


「知ってること?」

「構成員の人数とか、アジトの正確な位置とか」


「ほとんどなにも知らない。私の夫が殺されたのはもう5年も前だから。とにかくやめたほうがいい」


「ほう、そうですか。では迂回しましょう」


 フランクの口調と表情が一致していないのに気づいたのは、アストリアとアルフレッドのふたりだけだった。


 フランクの眼は危険な光を纏っていた。

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