第十六章 冥界 シュピーゲルエルデ《鏡の野》
アストリアの魂は現世と冥界のはざまにある
死後の世界は生前の死生観によってさまざまな姿を見せる。
幼き日の彼が絵本で聞かされたシュピーゲルエルデが彼の眼の前にあった。
あたり一面草原が広がっている。すべての草花が黄金に輝いている。
死んだ人間の魂は、シュピーゲルエルデで一枚の鏡を見ることになるという。
そこに映し出される魂の姿によって
それは前世界崩壊後に造られた神話だった。
鏡の野=シュピーゲルエルデはダークロード・カイナスと光の巫女ウルルの物語で語られている。
カイナスもウルルもファンタイル大陸に伝わる神話の登場人物。
舞台は神々に祝福された国オーラクルム。
孤児であるカイナスは自分を虐待した養父、街の住人を殺害し
大陸全土に宣戦布告。
自らを
一代で闇の大帝国を築き初代皇帝に即位。
最後まで抵抗をつづけたイシュメリアの神殿の神官戦士と一戦交えたカイナスは光の巫女ウルルを捕虜とする。
彼が負った傷を治療したウルルに対し、カイナスは騎士道を示し彼女を庇護して神殿へ帰す。
たったそれだけのことでふたりは惹かれあい恋心を抱くようになった。
神殿陥落の夜、覇道の頂点を目前にしてカイナスは神殿からウルルを攫い逃避行をはじめた。
カイナスの罪も、ウルルの裏切りも赦す人間はいなかった。
いままで味方だった人々から追い詰められたふたりが雪山で一夜限りの契りを交わした夜。
朝日を待たずふたりは凍死した。
ふたりの魂は神々によって鏡の野=シュピーゲルエルデに導かれる。
シュピーゲルエルデで魂を映す鏡を覗くとそこに映った姿は狂戦士でも光の巫女でもない、素朴な恋人たちだった。
冥界へ旅立ったふたりを哀れに思った癒しの女神イシュメリアは彼らを天上界へ招き入れた。
ふたりは空中庭園で夫婦として暮らしている。
遺体は氷漬けになりこの世界を見守っているという。
それがダークロード・カイナスと光の巫女ウルルの神話である。
この話は作り話だと思われていたが、半世紀ほどまえ、一部の歴史研究家が南半球にオーラクルムに値する都市の遺跡があるという説を発表して話題になった。
現在、南半球は凍りついた死の世界だが、惑星が寒冷化する以前は文明が存在して北半球とも交流があったというのだ。
その学説は学会で笑いものにされ、人々の記憶から薄れていったが紛れもない真実であった。
南半球には古代文明の遺跡と神話の舞台になった都市。カイナスとウルルの氷漬けの遺体がいまも眠っている。
アストリアの魂はシュピーゲルエルデにおいて、彼がもっとも人生を楽しんでいた幼き日の姿になっていた。
記憶の大部分は消去され自らの身に起こったことも忘れて、きょろきょろと周りを見渡しながら歩いていた。
自分は誰かを探していることだけははっきりと覚えている。
「ねぇ、女の人知らない?」近くにいる人の袖を引っ張った。
「名前は?」顔が皺だらけの老婆が質問でかえす。
「ええと……、誰だっけ。大切な人だよ」
「それだけじゃわからないよ。ああ、もう行かなくては」
「どこへ?」
「船にのるんだ」
「ボクも乗りたい」
「チケットがあれば乗れるはずさ」
「チケット?」彼はポケットを探したが見つからなかった。
「それじゃあ、一緒には行けないなあ」
老婆は行ってしまった。
アストリアは独りぼっちになってしまった。
空は燃えるような
その光景を見ていると無性に感情が揺さぶられる。
「誰もボクを知らないところに行けば、悲しいことを忘れられるかもしれない……
独りは怖い。独りはいやだ」
アストリアの瞳は涙の膜で覆われ、あふれ出した雫が頬を伝う。
記憶を失っても、魂は哀しみと虚無を覚えている。
それらは
「いつもボクはこうして独りだった」
彼の脳裏にひとりの女の子の顔が浮かぶ。
黒髪でふわふわのくせっ毛で、それ以上は思い出せない。
再びきょろきょろするがそんな女の子はどこにもいなかった。
「あれぇ?」
自分が誰を探していたかわからなくなる。
探している女の人は金髪だったはずなのに。
どこからともなく緑色の羽をした蝶が現れた。
「綺麗だ。あの
そのとき空中から喪服のような黒いドレスを着た十代にも見える女が現れた。
足元も厚めの黒いブーツ。背は低い。
銀髪紫眼をしている。蒼の口紅に襟元にドクロのブローチ。
「いのちを刈り取りに来たよ」
「わっ、君は誰?」
「わたしはシュピーリア・エルデ・フォン・デム・ナーゲル。
あなたたちの言葉でいうところの死神ね」
少女は含みのある微笑みをつくった。
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