第九章 夜の森

 賢いクレリアは次から次へと死角を利用し姿勢を低くしながら屋外に出ていた。


 宿を抜け出して最初に目に入った馬車の荷台に潜り込む。


 あとは見つからないように息を殺す。

 馬車が出発するまでは間があったがクレリアの計算勝ちだった。


 クレリアはアストリアとシオンの必死の追跡にも引っかからず村から出た。

 村から出てすぐ荷台を飛び降りた。


 そのとき転んでしまったが、馭者は気づかなかったようだ。

 誕生日にアストリアに貰った手袋をしていたおかげで地面に手を突いたとき怪我をしなくて済んだ。


 本当はアストリアから貰った手袋など捨ててしまいたい。

 でも、寒いのだ。心もからだも寒くて寒くてしょうがないのだ。


 それに、手袋をくれたときの彼の思いやりが本物だと信じたいから捨てなかった。


 行き先はここではないところ。

 クレリアは全力で森の中をかけていった。

 みじめさで泣きながら遠くへ、遠くへ……。


 いまどこにいるか、そんなことは考えなかった。

 食料のことも水のことも考えない。


 ふたりがいるところより少しでも遠くへ行きたい。

 どれくらい時間が経っただろう。

 夕闇がおとずれ、そして夜が来た。

 クレリアは森に彷徨いこんでいた。


「怖いよう、暗いよう……」

 夜の森の恐ろしさをクレリアは知った。

 遠くで狼の遠吠えが聞こえた。


「ひっ」

 狼……!

 生きたまま狼に貪られるところを想像したら脚ががくがくして歩けなくなった。

 しゃがみこんで息を殺す。


 旅をはじめてから、いままではどんなときもアストリアが傍にいた。

 護られている安心感で森の中だろうが夜の闇だろうが怖くなかった。


 だがいまは独りぼっちだ。

 これほどまでに闇が恐ろしいとは。


 おまけに寒い。防寒着もつけず飛び出したクレリアは震えだした。

 アストリアからもらった手袋が温かくて、みじめだった。


 おなかが減ってきた。

 自分のポーチを開けたが食べ物はなんにもない。


 いまごろ傭兵さんたちは血相を変えてわたしを探してるだろうなぁ。

 マスターは怒ってるだろうなぁ。


 見つかったら殺されるかもしれない。

 そうなる前にこの森で獣に食われるか餓死するかもしれない。


「はぁ……」


 ため息をするとおしっこがしたくなってきた。

 冒険者にとって排泄は深刻な問題であった。


 野生動物は排泄物の臭いに敏感である。

 集団で狩りをする狼は冒険者にとって天敵ともいえた。


 だがいまのクレリアにそんなことを気遣う余裕はない。

 恥ずかしいけどしちゃうか。獣ににおいを嗅がれるのはよくないかもしれない。 

 川に向かってしよう。


 クレリアはおしっこを我慢しながら川を探すと幸運にもすぐ見つかった。

 かなりの段差があり川岸もない。

 我慢の限界も近いのでクレリアは裾をめくりしゃがみこんだ。


 そのとき! 茂みを搔き分ける音がした。


「クレリアっ!

 やっと見つけた!

 そこを動かないでくれ、お願いだ!

 いまそっちに行くから」


 最悪のタイミングでアストリアが現れた。

 彼の見た目はぼろぼろだった。

 彼は必死の思いでクレリアを追跡し探し当てたのだ。


「やだーっ!

 わわわわっ、来ないで、来ないでぇ!」


 クレリアは必死に叫んだが、アストリアは彼女に拒絶されたと受け取った。


「シオンとは性交渉してない、本当だ。

 でもオレが悪かった。どんな償いでもするから許してくれ。

 もう勝手にひとりにならないでくれ」


 おしっこはひとりでするもんなんだよ。


 アストリアはどんどん近づいてきた。

「いまおしっこしてるからぁ‼」


 クレリアが大声で叫ぶと地面が崩れ彼女のからだは宙に浮いた。

 まるですべてがスローモーションで流れているようだ。


 目の前に川の水面が迫っている。

 この季節の川に落ちたら助からないだろう。


 うそ……、わたしの死因、放尿……?


 派手な水しぶきとともに水面に飛び込むかと思いきや、服の襟を思いっきり引っ張られた。


 オレは前回つかめなかった、彼女・・の細い腕を。

 今回はつかむ!


 アストリアが間に合っていたのだ。

「見ないで、見ないでぇ!」

 クレリアがスカートで股間を隠すとアストリアは苦痛に顔をゆがめた。

 服が血に染まっていく。

 シオンとの決闘【前巻参照】で負った傷がひらいたのだ。


 〝パタパタッ〟


 クレリアの顔に血がかかり彼女は悲鳴を上げた。

「いやあああっ!」

「ごめんクレリア。

 シオンにやられた腕の傷が裂けはじめた。

 クレリアを上にあげることはできそうもない」


「ええー!

 離さないで! 離さないで‼

 いま離したら一生恨んでやるー!」


 アストリアは笑った。

「水温がオレの予想より低かったら一緒に死のう」


 クレリアは彼がなにをするつもりか一瞬で理解できた。

 もう長く語る時間はないだろう。

 だから、最高の笑顔で応えた。


「うん!」

 アストリアは彼女を抱いて川に飛び降りた。

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