第十章 セラノ 前編

 アストリアは高熱を出し、生死をさまよった。現世に帰還したときはベッドの上で、クレリアが傍にいた。上半身は半裸で包帯だらけ、手袋も外されていた。


「あっ! 先生、目を覚ましましたよ!」

 クレリアがベッドの彼をのぞきこんだ。

「ここはどこだ、オレは生きてるのか」

「あはは、寝ぼけてる」


 クレリアが笑ったのでアストリアはムッとしかけたが、クレリアの眼には涙が浮かんでいた。それを見てアストリアの心には癒しの感情が生まれた。

 

 あたりを見回すと、大きな机が一台と、ベッドが並んだ無機質な部屋だった。床は埃ひとつなく、盗賊の砦にしてはずいぶんと清潔である。


「はっ! クレリア、おまえけがはないか⁉」

「ありませんよ。あなたが守ってくれたおかげで」

 アストリアは深い息をはいた。

「だから死なないって何度もいったでしょう。わたしのいうことを信じないんだから」

 見たこともない女がクレリアに話す。女は眼鏡をかけていてまだ若い。白衣を着ている。


「ここは病室よ。あなたは鞭で打たれて気を失って運ばれたの。よかった、そろそろオムツをつけようかって準備してたの」

「オムツ⁉」

「そうよ。ベッドを汚されちゃかなわないもの。意識不明患者にオムツをつけるのは常識よ。

 あいにく予備のオムツがなかったから布切れで代用しようって思ってたんだけど、手間が省けたわ。

 普通はすぐつけなきゃいけないけど、あなた重いから先に治療してたの」


「あんたは……?」

「わたしはセラノ。セラノ・カーマイン。この砦で医者をやってるの。

 ベルナディスの友人……みたいな? 奇妙な関係。

 最初は誘拐されてきたんだけど、当時医学生だったわたしを妙にベルが大切にしてね。

 奴隷として売られることもなく、かといって逃がしてももらえない。そんなところかな。

 この砦で女性はわたしとベルだけ。あなたがベベスやロドリットを殺したんでしょう?」


「そうだ」

「わたしはなんとも思ってないわ。あのふたりは女性を大切にしなかったから。というか、この砦の人たち全員ね」

「オレの名は……」


「アストリア君でしょう。クレリアちゃんから聞いたわ」

「そうか。この病室にはあんた以外に人はいないのか?」

「病室は神聖なもの。見張りなんて入らせないわ。でも、わたしが悲鳴をあげればすぐに駆けつけられるように待機しているから、乱暴はしないように」


 アストリアは沈黙でこたえた。セラノを人質にして逃げることは無理そうだ。なにより、いのちの恩人である女性に乱暴することなどありえなかった。

「アストリアって、女の子の名前よね」

 セラノは眼鏡の端をクイとあげた。

「わたしも気になってた」

 クレリアもふたりに目配せする。


「ああ、それな。母親が女の子の名前しか考えてなかったんだ」

「愛が足りないわね。あっ、気を悪くしないで」

「そうだったんですね」

 クレリアはようやく納得がいったようにうなずいた。


「オレはどのくらい寝ていた」

「丸一日。もうすぐお昼よ」

 アストリアは起き上がろうとしたが鋭い痛みが走る。

「あああ、起きちゃダメです」

 クレリアがアストリアのからだを抑える。


「はなせよ」

 いいながらアストリアは左頬にあてがわれていた包帯をはがした。血は止まっているがなまなましい傷痕があらわになる。

 左頬の傷を見るとクレリアは涙目になって、舌でぺろぺろと舐めようとした。


「ネコじゃないんだから」

 アストリアはクレリアを引きはなした。

「フフッ、役得ね。聞いたわよ。あなたが彼女を守るためにいったセリフ。妬けるわ」

 セラノは微笑ましくいって机の端に腰かけた。

「やめてくれ」

「あなたたち兄妹なの?」

「いや……」

 アストリアは横になって天井を見た。


 セレナ……迎えに来てくれなかったのか? せめて彼女の夢だけでも見たかった。


「なにを考えているの?」と問うセラノは勘がいい。

「ひとりの女が死んだときオレは神に祈るのをやめた」


 誰にいうでもないアストリアのつぶやきはその場にいる女ふたりの心に響いた。

「この人危ないひとなの?」

 セラノは隣にいるクレリアに小声で尋ねた。


「まだ付き合って日が浅いけど、多分そうだと思う」

 クレリアも小声で答えた。

「聞こえてるぞクソガキ、守りがいのない女だ」

「よくもいったな、死んじゃえ!」

 クレリアは興奮して再び涙目になっていた。

「まぁまぁ、ふたりともそれくらいで。病室でこれ以上やったらわたしも怒るから」

 クレリアとアストリアは黙った。

 セラノが煽ったのに理不尽だ……。


「えく、ひっく、守りがいのない女っていわれたぁ……」

 クレリアがしゃくりあげるように顔をくしゃくしゃにして泣きだした。

「あ……やべ……」

「あなたが悪い。女の子にひどいこといって」

「だってコイツがあんまりクソガキだから……」

「わーっ」

 クレリアの鳴き声はひどくなった。

「悪かった、悪かったから泣かないでくれよ」

「あやまれ、二度とクソガキっていうなぁ」

 クレリアは泣きながら訴えた。


「わかった、わかったから。おまえは最高に良い女だ」

「なんだそれ」

 セラノは思ったことがそのまま口に出た。

「ほんとう? ほんとうにいいおんな?」

「本当だよ。いいか、どんな男だって嫌いな女のためにからだを張らないよ。な?」

「うん……」


 クレリアのしゃくりは収まっていった。

 女かと思えば子ども、子どもかと思えば女、アストリアは混乱気味だった。

 これが‟女”か……


「ここから出たい」

 奇妙な沈黙のあとアストリアはセラノに目配せした。

「わたしにいわれても……、それにあなたのそのからだじゃ無理よ」

「わたしがいらないこといったから……」

 クレリアは下を向いた。


「いや、あの女はいつかおまえに感謝するようになる。

 誰かがいわなきゃいけないことをいってやったんだ。

 オレの傷なんかなんでもない。オレはおまえを守るためにいるんだからな」

「………」

 クレリアはアストリアを見つめた。


 あなたがわたしを守ってくれるのはおカネ貰ってるからなの?

 怖くてきけないよ……!


 アストリアはそんなクレリアの気持ちにまったく気づいていない。セラノは同じ女として、クレリアのアストリアへの想いを察した。

 

クレリアの側によって肩をポンポンと叩くと、彼女は振りかえってセラノを見あげた。セラノはなにもいわずコクンとうなずいた。クレリアはうるんだ瞳でセラノを見た。

「?」(こいつらなにやってんだろう)

 鈍感なアストリアは気づかない。

 セラノは今まで人を好きになったことがなかった。


 ――そうか、これが恋なんだわ。鈍感な男と幼すぎる少女の恋……。奇妙なはずなのになぜか微笑ましい。


「そうね、わたしからベルにかけあってみる」

「本当か?」とアストリア。

「でも、期待しないでね。あなたは人をふたりも殺してるんだから」

「それでも嬉しいです!」


 クレリアはセラノの手を握った。

 ぐぅー、と音がした。クレリアのお腹が鳴ったのだ。


「あ、わたしお腹減ってきました」

「じゃあ手を洗ってきて、クレリアちゃん」

 セラノがいうとクレリアは部屋を出て行った。

 部屋にセラノとアストリアふたりだけになると、セラノはポケットに手をいれたままアストリアのベッドに近づいた。


「あの子ね、絶対に食事を摂らなかったのよ。

 あなたが生死をさまよってるのに横でご飯は食べられないって。何度も説得したんだけど意地になっちゃって、子どもね。でもうらやましい。

 その代わり水をがぶがぶ飲んでたのよ。心配なくらい」


「水中毒……」

「なに食べたい? といってもあなたたちは捕虜だからね。雑炊みたいなものしかないわ」

「それでいい。有難いくらいだ」

「わたしも同じものを食べるわ」


 優しい女だ。いま思うとシェリーにあった日から優しい女に巡りあえることが多くなったようだ。セレナが死んでからひとりも優しい女に出会わなかったのに。シェリーは出会った男性の運気をあげる力を持っていたのだろうか。


 クレリアが部屋に戻ってきた。

「なに話してたんですか」

『何も』

 セラノとアストリアは異口同音した。

「フフッ」

「ハハッ」

 セラノとアストリアは笑いだした。

「あぁ~、この空気、わたしがいない間に男女の仲に……」

「それはない」

「バカいうな」ふたりが否定すると

「それならいいです」クレリアは腕組みした。


 なんなんだこのガキは。

 一丁前に独占欲か。

 オレのことを男として意識してるのか。

 わからん。


 セラノはおしぼりで手を拭いたあと器を三つ出して雑炊をよそった。スプーンも出す。

「いただきましょうか」とセラノ。

「いただきま~す」とクレリア。

「………」

 アストリアは無言で雑炊とスプーンを受け取った。

「いただきますは?」

 クレリアは咎めた。

「あ?」

「あ?じゃない。『いただきます』は!」

「うるせぇな」

 アストリアは食べはじめようとした。

「うっ」

 傷の痛みでスプーンを落としてしまう。

「あぁもう子どもみたいなんだから」

 クレリアはスプーンを拾おうとした。

「あぁいいわ、わたしが拾う」

 セラノがクレリアの代わりにスプーンを拾い、洗うために部屋を出て行った。部屋にはクレリアとアストリアだけになった。


「仕方ない、食べさせてあげます。あ~ん」

 クレリアは自分のスプーンで雑炊をすくってアストリアの口に近づけた。彼は赤面した。

「自分で食べられる」

「そうですか」

 クレリアはスプーンを下げた。

 ……ちょっともったいなかったかな。ガキ相手になにを考えているんだ、オレは。どうみても子どもなのにやたら自分が女性だとアピールするからわけがわからなくなってきた。


「そういえばアゼルはどうした」

「一緒にいたんですけど、盗賊の人たちが馬で近づいてきたとき、びっくりして空飛んで逃げちゃいました。心配です。かしこいから大丈夫だと思うけど」

「え? 空を飛べる?」

「背中に羽があるでしょ」

「飾りじゃなかったのか」

「使い魔ですから」

 セラノが戻ってきて三人は食べはじめた。


「あんまり、ベルを恨まないであげてね」

 真っ先に食べ終わったセラノはアストリアの顔色を窺うようにいった。

「あんた、食うのが早いな」

「そんなことどうでもいいでしょ」

 セラノは空の器を強めにテーブルに置いた。

「消化に悪いですよ」とクレリア。

「話の腰を折らないでよ、クー坊」

 セラノは眼鏡の端をクイと上げた。

「クー坊⁉」

 クレリアは仰天した。

「とにかくね、ベルナディスはかわいそうな子なの。親に捨てられたのよ、最悪のかたちでね。

 これはふたりで飲んだ時にベルが話したことなんだけど……


 彼女が子どものころ、彼女の家に盗賊団が現れたとき、彼女の父親は母親を突き飛ばして真っ先に逃げたんだって。

 それだけじゃない。母親が『このを差し出すからわたしだけは助けて』っていったんだって。


 盗賊の親分はあんまりクズだから面白いと思ってベルだけを連れ去って、自分の娘にして、ノーブル・スネイクとして育てた……信じられる? こんな話ひどすぎるでしょう。


 親を見つけたら殺してやる。でもあたしには親の顔が思い出せないんだっていったときの顔忘れられない……」


 クレリアは絶句してしまった。ひどすぎてなにもいえなかった。

「かわいそうだな……」

 アストリアがスプーンを休めつぶやいたとき、残りのふたりは少し驚いた。彼の体はベルナディスに傷めつけられたばかりだからである。


「わたし、そろそろベルの所へ行ってくるわ」セラノは半立ちになった。「あ、逃げないって約束してくれる? あなたたちは捕虜なんだから」

 クレリアもアストリアもうなずく。

 セラノが扉を開けるとそこにベルナディスが立っていた。


(中編へつづく)

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