羅針盤
セツナ
第1話 邂逅
高く雲をも突き抜けるほど天に伸びる壁に囲まれ沈まぬ太陽に照らされている世界。
大陸一つを覆うほどの大樹の下では純白の都が広がっている。その都を中心に東西南北に点在する大陸や島々は、都ほどの大きさではない大樹を起点とした四つの領域に区分されている。
東の領域(アナトレースラグ)、西の領域(デュシスアダス)、南の領域(ノトスルビ)、北の領域(ボレアースチスロ)、そして中心にある都の中央乱樹(セントレライト)。この五つの領域が広く狭い壁の中の世界である。
罰なのだと、誰かが言った。
王が決して赦さぬ罪を我々は犯したのだと。
火の力(ブレリトミス)で灯された一本の蠟燭の灯りが本棚で埋められた純白の大理石の室内を心許無く照らす。
その、蝋燭が立てられている机の側にある人影。
白く透き通る長髪を束ね流し、陶器のような穢れを知らない白い肌を覆い隠すように、肩から下げる大きなフード付きガウンの下には皺ひとつないシャツ、細く長い脚を隠すスリムなパンツに爪先を跳ね上げた革靴。その全てが漆黒に包まれていた。前髪を上げていることによって見える計算して作られた彫刻のように整った相貌の男の細く整えられている眉の下、蒼白の瞳が漆黒に覆われた手が持つ厚みのある本の文字を追っていた。
王は赦さない。
そう、一言だけ呟いた男は持っていた厚い本をこれまた分厚い本が所狭しと納められている本棚の唯一の隙間に押し込んだ。
本棚から身を翻した男は純白の大理石の床をカツカツと硬質な靴音を響かせ下げていたフードを目深にかぶる。フードに縫い付けられた繊細で美しい——五枚の花弁の中央につんと尖った実を付け、その周りを長く細い雄蕊が囲む——花々の刺繍が施された漆黒の佳麗な布が唯一露出していた白い肌を完全に隠し、白一色であるのに厭に絢爛(けんらん)な模様が施されている重い両開きの扉を突き除けるように開く。
男が部屋を出ると支えるものがない重い扉は自動的に閉まり一本の蝋燭の灯を吹き消した。
東の領域(アナトレースラグ)の気候はぽかぽかとした太陽光の温もりと吹き止むことのないゆるりとした風が調和して他の領域に比べたらとても暮らしやすい環境である。
その中でも一等穏やかな海域にある、海から空に向かって咲くように茎をお互いに巻き付け合いながら高く伸びる五つの群生している満開の桜によって桃色に覆いつくされている島々。
螺旋を描く茎の先で別れた島々は一つの島を中心に残りの四つの島が取り囲むようにして形成されており、島同士を繋ぐ橋は存在せず、常に吹いている風を利用した飛行船がこの島々の主な交通手段になる。
上流階級の人間たちが暮らす南に位置する島〈ハネズ〉から観光地として賑わう中央にある島〈コウシ〉に向けて一艘の飛行船が風に乗り航行していた。
風に乗れるよう軽い木製の素材でできた船体の四隅から帆を膨らませ、船側に取り付けられている魚の鰭のような帆を船主は器用に動かして船を風に乗せている。
乗客が寛げるよう小さな船室が用意されており、四隅の壁へ直に取り付けられている椅子に、部屋の中央には三人掛けの椅子が三列設置されていた。
船頭に出る扉の横の壁に背中を預け直に床へと腰を下ろす長大な剣を持った襤褸(ぼろ)を纏った男性に、船尾側の壁に取り付けられている椅子に腰かける灰色のローブを着た女性、その女性の横に座っている白のワンピースを着た少女、中央後列の端に薄着の女性と一席空けて大き目の服を着ている男性。
中央後列の端に座る、黒く先に行くほど赤みが増す一房だけ跳ねた短い髪に、黄土色をした大き目のフード付きの服、迷彩柄のズボン、草臥れた革製のブーツを履いているカルはアーモンド形の目を細める。
カルの花緑青の瞳子は、風に乗って香る桜の甘い匂いが充満する船内を椅子から立ち上がり泳ぐようにして丸く刳り抜かれただけの窓へと進む少女を見つめる。
鎖骨辺りまで伸びたふわふわとした黒髪の少女が着ているふわりふわりと揺れる膝丈まであるワンピースは肩部分が緩く膨らみ胸元の大きな薄紅色のリボンが特徴的だ。肘の上から指先までを服の上から覆うグローブと細くしなやかに伸びる足には足先まで覆うタイツに胸元のリボンと同じく薄紅色のリボンで作られた桜の花飾りを付けたサンダル。
その少女は己の体を色の付けられた飾り以外、純白に覆っていた。
飛行船の揺れを物ともせず窓へと進んでいた少女はぴたりと足を止めた。
それから間を置くことなく飛行船が揺れる。
海からの上昇気流が飛行船を激しく揺さぶったのだ。
室内の乗客は揺れに耐える為に椅子の手摺や壁に掴まった。
「わっ」
揺れる船内に高い声が鮮明に聞こえた。
掴まる物が何もない場所で少女は体を浮かせているのを船内にいる全員が観取する。
背中から床に落ちていく少女は痛みに覚悟を決め、体を丸め小さな手を力いっぱい握りながら目を固く瞑る。
その場に居る誰もがもう間に合わないと思った。
しかし、少女の華奢な体は床に叩き付けられはしなかった。
落下する流れに逆らわず、それでも落下の勢いを殺しながら少女の体は温もりのある人間の懐へと抱え込まれる。
揺さぶられる舩の動きに狼狽えることなく、カルが少女の元へ進み間に合ったのだ。
少女は覚悟していた衝撃ではなく、添えられるように置かれた手に、抱え込まれた温もりに気付き瞑っていた目を開ける。
少女の翡翠の瞳は添えられた手の持ち主の顔を見ると静かに見開かれた。
そっと、支えていた手に触れ口を固く結び驚きに見開かれていた目を細め眉間に皺を寄せる少女の様子を見たカルは突然のことで怖かったのだろうと思った。
泣くのを何とか堪えようとして失敗したような、そんな顔を少女はしていた。
だから、カルは安心させるように憂色を表しているだろう己の顔の力を抜き、口角を緩く弧を描くように意識しながら持ち上げ努めて落ち着いた声を出した。
その顔は変に力が入っているのか、とても歪であったが。
「航行中の船はいつ揺れるかわからない。今みたいに怖い目に合うから、船が着くまで椅子に座っていた方がいい」
花緑青の瞳は一瞬遠い色を宿したかと思うと少女を慎重に床に降ろし添えていた手をふわふわとした髪を撫ぜるように動かす。
それは過去自分がされていたことを思い出しながら倣うようなぎこちない動きだ。
「……ありがとう」
小さな、窓から吹き込む風の音に掻き消されてしまいそうなか細い感謝の言葉をカルは聞き逃すことはなかった。
危ないという焦りから体が厭にそわそわしていた。心臓はバクバクと音を立てて跳ね胸を苦しくさせる。変に体に力が入っているせいでぎこちない動きしかできない。しかし、少女のその一言を聞いたカルは脳が理解して指示するより早く強張った体から余分な力が抜けていった。
意識してあげていた口角が、力を入れずとも自然と持ち上げていることにカルの自覚はない。
撫でていた手を止め、カルは少女の目線に合わせてしゃがんでいた体勢から立ち上がった。
カルの腰辺りの高さから見上げてくる瞳に揺らぎはなく、真っ直ぐとお互いの視線が交差する。
歪な笑顔が消えたカルの顔をよく見てから少女は一つ笑みをこぼして元の席に戻った。すぐ側で勢いよく頭を下げている灰色のローブを着た女性には一切の関心も向いていない。
カルも元居た席に戻り、一息ついた。その時を待っていたのか同じ列の端に座っていた女性が話しかけてきた。
「とってもかっこよかったわよ、おにいさん」
ヴィリ・ラテよ、と名乗る彼女にカルは怪訝な目を向ける。
艶のある濡羽色の軽く癖の付いた髪を後ろで緩くまとめ、首から胸元や肩を隠さない瓶覗色の上衣に、群青色の短パン、動きやすそうな足首まで隠れる靴。
黒褐色の肌を惜しげもなく晒すラテは艶やかでふっくらとした唇を艶美に吊り上げて丸く大きな瞳を持つ目を細める。深く底が見えない海の様な色の瞳に見つめられたカルは己の心の中を覗き込まれているような心地になる。
一席分空いていた距離をラテは躊躇いもなく詰める。
女性とはあまり積極的に関りを持ったことのなかったカルは急に詰めれた距離に体に自然と力が入る。
カルの状態などお構いなしにラテは布一枚纏わない肩を擦り寄せ、魅惑的な唇を内緒話でもするかのようにカルの耳へと近づける。
「ほんとうよ? とてもすてきだったの」
甘える様な殆ど吐息のような声で囁きながらラテの手はカルの体を撫でていく。
上から下に撫でる手はカルの腹の上で止まる。近づけた顔をラテはさらに近づけるようにカルの顔を覗き込む。
少しでも動けばお互いの肌が接触するほど接近したカルとラテの視界にはお互いしか映っていない。
彼女の瞳に映るカルはまるで深い海に沈んでいくような感覚に陥っていた。
揺蕩いながら抗うこともできず沈むしか選択肢がないようにカルはただただ揺れに身を任せている。しかし、腹あたりに微かに何かが触れる感触にカルは微睡から目を覚ました。
ラテの体を腕で押しのけ、腹のあたりへ手を伸ばす。
己の手で軽々と掴めるラテの細い腕を折ってしまわないように力を加減しながらカルはアーモンド形の目を吊り上げる。
「褒められた行いじゃないな」
「あら、バレちゃったの。残念」
ラテはカルの懐にある財布へと手を伸ばしていた。自身の腕をカルが掴んでいても気にも留めていないようだ。
彼女が息だけで笑う。
「ごめんなさい。もうしないわ、離してもらってもいいかしら?」
カルは掴んでいるラテの腕を見る。黒褐色の細い腕は自分から逃げる素振りを一切見せない。力を完全に抜いているのかラテの手は垂れる様にカルの手に支えられている。
「……あまり異性に対してさっきみたいな行動はしないほうがいいぞ。勘違いされて襲われても逃げられるのか?」
カルは息を吐きながらラテの手を離す。ラテは解放された手を緩慢な動きで体の横へと持っていく。
「ふふ、心配してくれるの? ありがとう。でも大丈夫よ、私すばしっこいの」
自慢げに話す彼女の顔はとてもあどけなかった。
「ねぇ、名前教えてよ。私はさっき教えたでしょ」
「一方的すぎる……カル、皆からはそう言われてる」
にこにこと無邪気に笑うラテの勢いに負けカルは名乗る。
「カル……そう、ありがとう」
楽し気に笑うラテは元居た席へと戻っていった。
風にゆらゆらと揺られる飛行船は着々と目的地まで進んで行く。
「お客さんら、もうそろそろ着くよ。降りる準備をしておくんだね」
船首側の扉の小窓からしわがれた声で船主が声をかけたあと、飛行船は徐々に高度を落としていく。
降下する際に飛行船は航空中とはまた違う揺れを発生させていたが、船主の腕の賜物か、カルたちには大した負担もなく無事に着陸できた。
飛行船の離着陸の為、桜の木は一本もない空港にフードを目深に被ったカルは周囲に目を配る。
先に降りていたラテは襤褸を頭から纏った身長と同じくらいある大剣を背負う男とぶつかり、慌てたように頭を下げている。
ぶつかられた男は気にしていないのか首を一回横に振るとその場を歩み去っていった。
男が去るのを見届けてからラテも逆方向へと足を進めていた。
カルは皺の寄った紙の切れ端を革製の手袋で覆った手でパーカーのポケットから出して見つめた。
『〈コウシ〉でお待ちしております』
それだけ綴られている紙の切れ端を、カルは溜息を吐きながら睨み付ける。
物心が付き始めてから今の身長になるまで〈ハネズ〉から出たことがなかったカルが〈コウシ〉まで来た理由。
自室の扉前に置かれていたそれ。
紙の切れ端を逆の手に持ち替えて再度ポケットを探る。
カツリ、と手袋を嵌めた指先に硬い質感が伝わる。
紙切れに包まれて一緒に置かれていた何かの鉱物であろう欠片。
鈍く濁った灰色の欠片は扇の様な形をしていた。丸みを帯びた個所と、割れたのだろう二面の断面。
それを見たとき、カルは自分の物だと、何故か思った。
生き物が息をするのと同じように、心臓が休むことなく鼓動を刻むのと同じように。何一つ疑うことなく、自分の物だと。
それからのカルの行動は早く、甘く優しい何不自由なく生活していた家を飛び出して来ていた。
早く、全部取り戻さなければ、と。
羅針盤 セツナ @01setsuna
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