第12話 部屋
二人はあっという間にアパートの角までやってきた。そのまま無言で通り過ぎリアムを夏緒は呼び止める。
「ここの一階。左の角の部屋を使ってもらおうかと思って。右側は私が住んでるから」
リアムが何か言葉を発した。
『わかった』みたいなことだろうと勝手に推測し、進む。
戸建てを改装して作ったアパートであり、一見すると普通の一軒家だ。イエローベージュの外観で、一階部分の扉は四枚。一番左は姉の部屋。一番右は夏緒の部屋。真ん中の二枚の扉は二階の住人の部屋のものだ。この二部屋は入ったらすぐに階段という間取りになっている。
生垣で囲まれており、門がある。夏緒の肩までもない、戸建てによく設置された黒い門だ。
それから庭にあたる部分(といっても殆ど土がむき出しだが)の飛び石を渡り、扉の前に立つ。
鍵を鞄から出そうとして、手が震えていることに気付いた。
喉の奥がきゅっと縮み上がる。
——あぁ、まただ。
またあの、喉の奥の塊が現れた。
夏緒は一度、ぎゅっと目を閉じる。
だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ
呪文のように唱えて、息をゆっくり吐く。
心臓がバクバクと鳴り始める。
耳鳴りがする。
一瞬気が遠くなりかけた、その時。
「ナツオ」
降ってくるかのように、優しい声がした。
目を開けると、びっくりするほど近い距離に、リアムの顔があった。
思わず後ろにのけぞって、夏緒はあやうく玄関前の一段高くなったコンクリート部分から落ちそうになる。
その腕をリアムが掴む。
「あ、ありがと」
夏緒を引き戻しながら、リアムがほんのり微笑んだ。
我に返った夏緒は再び、鞄に手を突っ込んで、鍵を出す。
震えはもう止まっていた。
鍵は、あっけなく開いた。
傘を扉の横に立てかけておき、夏緒は扉を開く。自分の部屋と同じように、扉は軽々と開いた。
人が住んでいない部屋特有の、動いていない空気が滞留していた。
背の高い本棚と、空のいくつかのカラーボックスが寂し気に置いてある。
それから、小さなテーブルと、むき出しのマットレスが置かれたベッド。
思った以上に、無機質だった。
全て白で統一されていたから、強いて言えばそれだけが『なんとなく』姉を感じさせるだろうか。
しかし、一緒にコーヒーを飲んだ、あのテーブルはとてもあの日使っていたものと同じだとは思えない
素知らぬ顔をしてただそこにある、粗末な家具に見えた。
可愛らしい花柄の布団カバーも、ピンクの絨毯も、本棚にぎっしり詰まっていた洋書も、どこにもない。
きちんと片付いていたが、物の多い部屋だった。
姉の匂いみたいなものも、もうしない。
夏緒は、あっけにとられ、中に入れずにいた。ここまで姉のいた気配がないとは思っていなかった。
「ナツオ?」
「あ、………ごめんね。どうぞ」
夏緒が靴を脱いで上がると、リアムも戸惑いながら、玄関で靴を脱いだ。ぼろいブーツだった。
「ここ、お風呂場なの。使い方、分かるかな」
脱衣所の電気を付ける。ドラム式洗濯機がやはりぽつんと、座っている。
奥にあるお風呂場の電気も付けた。扉を開けると黴臭かった。
大して効果はないだろうと思いながらも換気扇を回す。
それからガスの電源も入れた。液晶が光り、夏緒の部屋と同じ表示がでる。
リアムは不思議そうに、靴下のままユニットバスに入った。
「そうそう、その銀色のレバーをね、上に上げると、シャワーからお湯が……」
説明が終わる前に、リアムはシャワーを出してしまい、服を着たまま、もろに水をかぶってしまう。
「オアッ」
「大丈夫!?」
叫び声の後、知らない言葉で彼はいくつか騒ぎ、それから大きな声で笑いだした。
心から、楽しそうな笑い声だった。放課後の、小学生の笑い声みたいな。
その笑い声が、この部屋に広がって、夏緒の目には、笑っている姉が映った。姉も、そうだった。子供みたいに笑う人だった。大きな口を開けて、大きな声で。
「濡れたー」
リアムの楽しそうな声。
夏緒は我に返り、慌てて彼から視線を外した。
リアムはもうシャワーの使い方はマスターしたらしく、きちんとシャワーを止めている。
「服、洗濯してあげるから、……えーっと、ごめん、じゃぁ脱いでこの部屋の外に置いておいて。お湯の出し方わかったね?しばらく出しっぱなしにしておいたら、だんだん温かいのがでるからね。それでも冷たかったら左側のレバーをオレンジのところにしてみてくれる?」
「ありがとございます」
「あ、ちょっと待ってて!」
そして慌てて春姫の部屋を飛び出し、自分の部屋の鍵を出す。手が震えていたが、さっきの震え方とは違う。怖いのではない。なんと呼べばいいのかはわからない。興奮とか安堵とか、そういう色んな感情がごちゃ混ぜになっている。
そう思うと頬が緩んだ。
勢いに任せて開いた自分の部屋の、あまりの明るさに驚いた。レースのカーテンは引かれたままだったが、一瞬自分の部屋ではないような錯覚さえ抱いた。
一拍おいて、夏緒は慌てて左側の扉を開ける。足を止めている暇はないはずだ。
姉の部屋とは左右対称にできているので、同じ形のユニットバスが左側にある。シャンプーとボディソープをわしづかみ、バスタオルを抱え込んで、一番奥の扉まで走った。
「ごめんね、リアム。これ、石鹸なの。こっちがシャンプー…」
リアムは夏緒が部屋を飛び出した時と全く同じ場所、同じ仕草で待っていた。もちろんびしょ濡れのまま。
リアムは小首をかしげる。
「頭を洗うためのもの」
「ウィア」
なるほど、みたいな言葉だろうか。彼はシャンプーの赤いボトルを手に取り、しきりと頷いている。そのたびしずくがぱたぱた床に落ちた。
「こっちが体を洗う石鹸。液体なんだけど。適当に手に取って体擦って。ごめんね、洗うやつ持ってこなかったの」
自分のものを使わせるのもちょっと微妙だ。
リアムは黙って困った顔をする。理解できていない様子に、夏緒は早口だったかと反省し、今度はゆっくり説明する。
「こう、ポンプを押して、こうやって、体を擦る。擦るって、こういうの…」
ボディランゲージを加えると、リアムはぱっと顔を輝かせて、また何度もうなずいた。
「わかります、わかります」
「よかった、あとこれはタオルね。終わったら、拭いて。じゃ、私、ちょっと近くで下…」
下着買ってくるから、と言いかけて、口ごもった。
「……色々と買ってくるから。えぇっと、着るものとかね。忘れてた。ちょっと時間掛かるかもしれないけど……15分くらい。寒かったら、お風呂にお湯溜めて、ゆっくり浸かってて。買ってきたら、ノックして、声かけるね。それで、そこの扉の向こうに置いておくから。そしたら、私は外で待ってるから、着替えてくれる?いい?」
リアムは真剣なまなざしで、ゆっくりと答える。
「脱いで、置いておく。ナツオ、ノックしたら、そとに服ある。いい?」
「そうそう、そういうこと。じゃぁ、すぐに買ってくるね」
夏緒は脱衣所の扉を閉め、玄関から外に出る。
そうか、下着から何から、色々なものが必要だ。そんなことは頭からすっぽり抜け落ちていた。
生活するには、物が、お金が必要なのだ。
——とにかく急いで日用品をそろえないと。
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