第10話 常識

「リアムは、ショウコさんに会うために来たの?」

「はい。会いたかった。ただ、会いたかった。それ以外のことは、考えていなかった」

「……ショウコさんは、リアムが来たことを知っている?」

 ダーだかラーだか、やはりカタカナにできない。

 否定していることだけはわかった。

 リアムはコーヒーに再び口をつける。それからやはり顔を顰めた。

「来たら、会えると思ってた」

 ぽつん、と言って、彼はカップをソーサーに置いた。

 かしゃんと、陶器の音が響く。

「日本と言っても、広いから……。何か、手掛かりはないの?どこに住んでるとか。駅の名前でもわかればまだ探しようがあるかもしれない」

「エキ?」

「うーん、電車が止まるところなんだけど」

「デンシャ」

「……じゃぁね、東京とか大阪とか言ってなかった?」

「東京!そう、東京に住んでます」

 彼の顔は輝くが、夏緒からもれるのはため息一つ。

 聞いておいてなんだが、東京と言っても、広すぎる。

「苗字は?」

「ミョウジ。あぁ、ノガミショウコが名前です」

 そこまで珍しい苗字でもない。濡れた足元から、体が冷えて来るのを感じて、夏緒は自分のコーヒーをブラックのまま飲んだ。

「写真とかはない?」

「シャシン?」

「えーっと、そっくりな絵みたいなやつ」

「……ないねー」

 置いたコーヒーの表面が揺れている。目線を上げると、通りの道路を濡らす雨はいつの間にか殆ど上がり、薄日が差し始めていた。


 とりあえずフェイスブックあたりをチェックするとして、すぐに見つかり、連絡が取れるものではないだろう。

 ここで、じゃぁ頑張ってねと席を立つことも、できないわけではない。

 夏緒は背もたれに体を預ける。

 ——常識的に考えて、帰る手段すら持たない異世界人に関わるべきではないだろう。

 けれど……

 通りから視線をずらせると、コーヒーをスープのように、スプーンですくっているリアム。

 夏緒にはわかっていた。

 もう彼を見放すことなどできないと。

 一昨日、自分の手を取って立ち上がらせてくれた、あの瞬間から、彼から離れられないという予感がしていた。

 胸が高鳴る。耳元で血がザーザーと流れる音がしていた。自分がありえない言葉を準備していることに、この体は喜んでいるのか、恐怖しているのか。

 見ず知らずの、素性もわからない、男の人に。

「うちに、来る?」

 リアムがコーヒーから顔を上げる。

「とりあえず、今日は、泊まるところもないだろうし」

 夏緒は慌ててそう付け加えた。それから言い訳のように早口で続ける。

「うちと言っても、姉の部屋なんだけど。……いないから、今は。とりあえず、まずはシャワー浴びて、着替えて、しっかり寝た方がいい」

「それは、いいことでしょうか?」

 リアムの真面目な顔。予想だにしなかった質問に、一瞬何を言っているのかと夏緒はきょとんとした。

 それから、笑いが込み上げてくる。

 笑いは体を震わせ、緊張していた体がゆっくりと弛緩していくのがわかった。

 ひとしきり笑ってから、目じりの涙を指で拭う。

 リアムは不思議そうな顔のまま、じっと夏緒を見ている。

「常識で考えると、よく知らない男の人を勝手に家に連れていくのはいいことではないなぁ」

 大丈夫、とそう思った。

 この人は、大丈夫。

「でも、困っている人を助けるのは、いいことだと思う」

 神妙に頷くその顔を見ながら、夏緒は少し意地悪く口をゆがめる。

「………見たところ、あなたは私の嫌がることを無理にする人じゃないと思うの。違う?」

 その言葉に、リアムもようやく笑顔を作る。

「はい。嫌なこと、しません」

「じゃぁ、大丈夫。ちょっとはショウコさんを探す手伝いもできるとは思うし」

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