第8話 コーヒー

 爪は短く、指が長い。

 ウェットティッシュの使い方がわからなかったのだろうか、トレーに置かれたままである。もう素手で持ってしまっていたので、言及するのはやめることにした。

 白い肌、体毛は金色で殆ど目立たない。

 雨でぬれた前髪は額にくっついていた。

 整えた様子のない、茶色い眉毛。うっすら無精髭が生えている。やはり薄茶色いのあまり気にはならないが、『おしゃれな男の子』からは程遠い。

 鼻はすらっと長いが、比較的日本人に近いと思った。輪郭もシャープというよりは四角く、それがやさし気な印象を作っている。

 夏緒はテーブルの端の方に肩肘をつき——というのも、体の大きな彼はテーブルの七割方占領していたため——こちらを向かないのをいいことに、じっくりと観察をしていた。

 単純に見た目で言えば、『外国人』。

 特別変わったところはない。服装を除けば。

 怪しげなチョッキはやはり何かの動物の舐めし皮のように見えるし、麻のように見えた白いシャツは、どことなく毛羽立っている。髪の濡れ具合を見るに、かなり雨に降られたようだが、このシャツは全く透けていないし、撥水しているようだった。

 夏緒の知るどの服の素材とも違っている。

 とはいえ、昨日に比べて気温はずっと下がっているはずで、夏緒は彼が寒くないかとひっそり心配した。

 家から一歩も出なかった夏緒は、気温の変化など、天気予報でなんとなく知っているだけではあったが、少なくとも一昨日、コンビニに行った時の茹だるような暑さはどこかへ消え去ってしまっているのは確かだ。



 男はミラノサンドの八割を食べ、水に手を伸ばして、ようやく夏緒を見た。

 突然目が合ったので、夏緒は少し照れながら、男が水を飲んでいいのか聞きたがっているのだろうと、「どうぞ」と手の平を軽く出す。彼はぐびぐびと一気に小さなグラスの水を飲み干した。白い喉ぼとけが上下する。

 何もはいっていないグラスをトレーに戻し、男は小さな背もたれに体を預け、はぁっと大きく息をつく。

「美味しいですか?」

 いかにも満足した風の男の横顔を見ながら、夏緒は笑って聞いた。

「はい、とても。『ににちかん』食べてなかったです」

と、やはりやさし気な声で彼は答えた。

 二日間と言いたいのだろう。それにしても、日本語が上手だなと思った。

 夏緒は大きく頷く。

「大変でしたね」

 彼はにっこりとこちらを向く。垂れた目じりに軽くしわが寄る。

 それからちょっと困った顔に変わり、男は顎を引き、上目遣いで夏緒を見つめ返した。

「な……名前?」

 まさか相手から聞いてくると思わず、夏緒は居住まいを正して、答えた。

「えっと、ナツオです。辻夏緒」

「ナツオ、さん」

「私も、聞いていいですか?」

「はい」

 男は自分の名前らしい言葉を発した。しかし夏緒には全く馴染みのない言語であるその音は、頭の中に残りもしない。カタカナにすら変換できず、困惑顔の夏緒に、彼はゆっくりもう一度言った。

「る…ルワムン……?」

 夏緒は懸命にその音を真似ようとしたが、うまくいかない。

 彼はおかしそうに笑う。

「ショウコさんも、言えなかったです。ショウコさんは『リアム』と呼びます」

「リアム……さん」

「リアムでいいです。だいじょぶ」

 そう言って、リアムはまた残ったあと少しのサンドウィッチを一気に口に入れた。幸せそうな顔をしていた。

 夏緒と同じくらいの年齢にも見えるが、表情や仕草はもっと幼い。

 あんな風に男の人が泣く姿も、輝くような笑顔も、見たことがないと夏緒は思う。

 心と表情筋が直結しているようだ。

 もぐもぐと波打つ頬。夏緒は通りに視線を動かした。

 雨は降り続いている。


 ここを出たら、彼はどうするのだろうか。

 どう聞いたらいいかと考えながら、リアムに視線を戻すと、口の中の物は飲み込んだのであろう、彼はコーヒーを不思議そうな顔で見つめていた。

「……コーヒー、飲めませんか?」

「コーヒー!!!」

 リアムの顔が輝く。大きな声にびっくりして、夏緒は軽く飛び上がった。

 リアムはコーヒーカップを大きな手でそっと持ち上げ、嬉しそうに続ける。

「これが、コーヒー!ショウコさん、ずっと言っていました。コーヒー飲みたい、コーヒーないと死ぬって。これが、コーヒーですね」

 とりあえずショウコさんはカフェイン中毒なのがわかった。

 夏緒はトレーに転がるコーヒーミルクとスティックシュガーを彼の手前に置き直した。

「そのままで飲んでもいいし、苦かったらこれを入れてください」

「はい」

 リアムは頷き、一度ソーサーにカップを戻すと、また両手を合わせて、「いただきます」と言ってからそのままブラックコーヒーをすすった。

 次の瞬間、激しくせき込む。揺れてカップから跳ねたしずくは彼の濡れた白いシャツに茶色い模様を付けた。

 何かわからない言葉を色々言い、顔を顰め、カップを覗き込む。

「大丈夫?」

 夏緒がトレーにあった紙ナプキンを彼に渡すと、眉をギュッと寄せたまま、リアムは言う。

「変。変な、味」

 一瞬面くらったが、いつまでも不満そうにカップを覗き込むその顔がおかしくて、夏緒は笑った。声を出して笑った。

 笑い出したら止まらなくなって、目に涙がにじんだ。

 おかしくておかしくて、心が温かくて。

 こんな風に笑ったのは、何か月ぶり、いや、何年振りだろうか。

 そう思ったら、どんどん涙が出た。

 父と母と、姉と四人で、リビングのテレビでお笑い番組を見ていた、遠い昔のことを急に思い出した。


 いや、本当は遠くなんてない。ほんの数年前のことだ。遠くに来てしまったのは、――私だ。


 手で口を押え、夏緒はうつむく。長いこと感じていなかった感情の波が襲い掛かってきた。

 こんな風に笑うのは、悪いことだと、失ってしまった家族に対して、申し訳ないと、そう思った。

 リアムが紙ナプキンを差し出している。さっき夏緒が服を拭くために渡したものだ。

 顔を上げると、とても困った顔をしていた。夏緒は恥ずかしさで目を伏せて、ありがとうと、そのナプキンで軽く目を抑えた。

「ごめんなさい」

「だいじょぶ?だい、じょうぶ?」

「うん、大丈夫。ありがとう。ごめんね」

 リアムはまた夏緒の知らない言葉で何かを言った。それから申し訳なさそうに肩をすくめてみせる。

「ごめんなさい。悪口言って」

 夏緒は何を言っているのかわからず、首を傾げた。

「コーヒーの、悪口」

 ぷっ、と吹き出した。

「違うの。そのせいじゃないの。ちょっと、昔のことを思い出しただけ。悲しいことを、思い出しちゃったの」

「…悲しい…」

 言葉を繰り返すのは、その意味を知らないからなのか。夏緒は微笑みながら続ける。

「だから、気にしないで。お砂糖とクリーム入れたら飲めるんじゃない?試してみて?」

 リアムはまだ少し困った顔のまま、クリームの入れ物をくるくると回した。

「ここから開けるの」

 手を伸ばす。彼が少し近づく。コーヒーの香り。リアムの匂い。夏緒は思う。私の心を、驚くほど穏やかにする、そんな匂いと温度だ、と。

 リアムは大きな手で小さなクリームのカップの開け口を苦労して開ける。やはり力余ったか、中身は弾けるようにしてこぼれ、彼は声を上げた。それは今度、彼のズボンを汚す。

 夏緒は自分の飲み水を紙ナプキンに少し取って彼に渡した。

「汚してしまいました」

「これで拭いてください。でもあんまりキレイにはならないかな。着替え、ある?」

「キガエ?」

「えぇっと、新しい服…他の服ってこと」

「ないねー」


 ミルクをこぼしコーヒーをこぼし、リアムの服はなかなか悲惨なことになっている。そもそもそのチョッキは洗えるものなのか。

 夏緒の疑問がまた頭をもたげて来た。

 つまり、——どこから来たのか、と。


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