第7話 当たり前

 二人は並んで歩きだした。

 自分よりずっと背の高いその男の身長に合わせて傘を持たなければならず、また、たったの「二度目まして」な男の人と相合傘をするというちょっとした緊張感から、夏緒の腕はプルプルと震えた。

 彼がそれに気付いているのか、いないのか。夏緒にはわからない。

 とりあえず傘を替わってくれる気配はなさそうだ。

 男は夏緒の手渡したティッシュを握りしめたままだったので、夏緒は空いている方の手で涙を拭くふりをしてみせると、小首を傾げてから感心したような顔をして、手拭いで拭うように、ちょっと乱暴に拭いた。

 隣に立つと、少し彼の体臭がした。

 嫌な臭いというほどではないが、きっとこの二日、お風呂にも入れず、寝るところもなく、もちろん傘もなくて、雨に打たれていたのだろうと、夏緒はその苦労を思った。


 聞きたいことは、たくさんあった。

 けれど彼が黙っているから、夏緒もきっかけをつかむこともできずに黙って歩いた。

 雨が降っていてよかったと思った。

 静かな雨だったが、それでも夏緒が心の中で沈黙の責任を押し付けるのには十分だった。


 駅に向かいながら、夏緒は入れそうな店を頭の中でリストアップする。

 彼の服の汚れ具合や濡れ具合から、さすがに店内には入りたくない。

 隣の席の人がこっそり顔をしかめるところを容易に想像できる。

 そうなると頭に浮かべたリストの殆どにバツが付き、結局ドトールのテラス席に荷物を置いた。

 テラスだが、屋根が張り出しているのでこの程度の雨なら濡れることはない。


「買ってくるので、ここに座っててください」


 テーブルは道路を向き、椅子は店側に二つ、並ぶように置かれている。


「ありがとうございます」


 彼は深々と頭を下げてから、大きな体を折り曲げ、狭いテーブルと椅子の間を通り、奥の席に向かう。彼を前にすると椅子もテーブルも頼りなく、そこにちょこんと腰かける姿は、アンバランスで愛らしくさえある。

 夏緒はほんのり笑みを浮かべて、バッグを持ち、店内に戻る。

 カウンターの前でしばらく悩んでから、肉のたっぷり入ったミラノサンドを一つとホットコーヒーを二つ頼んだ。

 出来上がるのを受け取り口で待ちながら、テラス席を見やる。

 彼の背中が見えた。


 店内はエアコンが効いているものの、人がいる場所特有の温かさみたいなものがあった。

 平日の昼間らしく、おしゃれなジャズ調の音楽と、主婦のおしゃべりが柔らかな喧騒を作っている。穏やかでほんのりと気怠い空気が漂っていた。


 突如、夏緒の心を不安がよぎる。

 この場にいるひとたちは、みな、知り合いとお茶を楽しみに来ていたり、近所に住んでいて一人でやってきたりと、『当たり前』の世界にいる。

 知らない男を連れてきて、ご飯を食べさせているなんて誰が想像するだろうか。

 その異常さは、突然胸に迫ってきた。

 冷静に考えれば、明らかに危険な行為であり、普段の夏緒であれば決してしなかっただろう。

 今更であったが、夏緒の体は緊張で強張る。

 軽い寒気が背筋を駆け抜けていった。

 あの公園で声を掛けるか逡巡した時と、全く同じだ。


 けれど


 そう。けれど、彼のあの目を思い出すと、あの垂れた目じりの、人の好さそうで、ころころと表情を変える緑色の目を思い出すと、きっと彼にまた会いたいという気持ちに、抗えなかっただろうと確信が持てる。


(——そうだ。私にはもう、失うものなんてなくて、これからの人生なんて、どうやって生きていけばいいかもわからなかったんだから——。)


 彼と出会う前の自分。静かすぎる部屋。味のしない弁当。

 夏緒は一度、目を閉じて、大きく息を吐いた。

 あの『当たり前の世界』だって、十分、他の人から見れば異常なのだ。


 窓の向こうに、大きな背中と茶色い頭が見える。胸の奥がじんわりと熱を持ち、自分の心の在り処を告げている。

 番号札が呼ばれ、我に返った。

 トレーに乗せたミラノサンドとコーヒーと水を持って、彼のもとに戻る。

 彼は通りを一生懸命——他に言い方が思い浮かばないほど、一生懸命に見つめていて、夏緒が戻ってきたことにも気付いていないようだった。


「どうぞ」


 声を掛けると、彼は少しおびえたような目を向けた。

 その小動物のような顔に一瞬面食らったものの、急におかしくなって、自然と微笑んだ。

 ——そりゃそうか。

 夏緒は急に肩の力が抜けた気がした。

 彼だって怖いに決まっている。(恐らく)よく知らない場所で、ほぼ見ず知らずの女に連れられ、食事を奢られる。彼にしたって、きっと異常な出来事だろう。


「大丈夫」


 何の根拠もないけれど、なぜかそう言って頷いていた。

 そして彼は妙に納得したように頷き返し、手を合わせて、

「いただきます」

と言った。

 彼の明らかに日本人ではない外見に、日本人らしい仕草がミスマッチ過ぎて夏緒は笑う。

 もう自分のことは見ておらず、ミラノサンドに夢中の男。かぶりつき、飲み込むように食べ始めた。よほどお腹が空いていたんだろう。

「ゆっくり食べていいですよ」


 どこから来たの?

 あの光はなに?


 夏緒はその質問を飲み込んで、貪り食う彼を、コーヒーを飲みながら眺めていた。

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