第3話 散歩

 あの不思議な彼に会ってから、二日経った。

 あれからコンビニに行き、お弁当を二つとお茶とパンを買って帰ってきた。自炊をしない夏緒はいつもまとめてお弁当を買って、数日引きこもるというのを繰り返していた。

 彼との出会いを除けば、いつも通りの買い物で、いつも通りの日常だった。

 いや、日常と呼べるかわからない、ただの時間の連続。

 だれにも会わない。だれとも話さない。時々点けるテレビが一方的に喋っている。ただそれだけ。


 あの人はどうしただろうか。

 尋ね人は見つかっただろうか。


 見上げた天井はただ白いだけ。

 目を閉じて、思い出そうとする。見上げた時の感じ。太めの顎。眠そうな目。そして、あの綺麗な緑色の瞳。

 思い出せるのは断片で、どうやっても『彼の姿をありありと思い出す』というところまではいけそうにない。


 ショウコさん——

 あの様子ではそう簡単には見つからないだろう。

 住所とか電話番号とか知っているのだろうか。


 優しそうな声。少し低くて、心地良い音だった。


 ——そもそもお金とか、持ってるのかな。


 夏緒はパジャマのまま、ベッドでごろごろと寝がえりを繰り返す。

 伸ばした足の向こうで、カーテンの隙間からうっすらと光が差しているが、どうやら曇っているらしい。確か昨夜遅くに雨音が聞こえていた。

 一昨日の強烈な日差しはなりを潜めていた。

 それで少し気持ちが軽くなり、上半身を起こす。

 昨日もこんな風にして一日を過ごした。気になって気になって仕方がないけれど、思い切って外に探しに行くのもおかしいかと、結局家から一歩も出なかった。

 家に引きこもっているのはいつものことなのに、一日が長くて仕方がなかった。

 頭に浮かぶのはあの人の好さそうな顔ばかり。


 彼に、もう一度会いたかった。


 一昨日買ったお弁当はもう食べてしまったし、そうだ、またお弁当を買いに行こう。ついでにちょっと近くを散歩しよう。

 口実を見つけると、体が急に軽くなった気がして、ベッドから下り、カーテンを開ける。

窓の外はまだ雨が降っていた。霧雨だから、雨音がしなかったようだ。雲が明るい。すぐに止むだろう。


 あの人は、傘なんて持ってないだろうな。

 そう思うと口実はさらにその輪郭をはっきりさせたような気がして、口元が自然と綻んだ。


 時計を見ると十時半を過ぎたところだ。

 ふわふわするのは体か心か。浮き足だって洗面所に向かう。高揚感。こんな気持ちは久しぶり過ぎて、なんと呼んでいいかわからない。

 鏡の前に立ち、しげしげと自分の顔を見た。

 胸まである伸びた髪。もう3ヶ月美容院に行っていない。

 染めていた髪は色落ち、根本は黒く、毛先は明るく、傷んでいる。

 彼のキレイな茶色い髪を思い出し、恥ずかしくなった。

 明らかに見覚えのある自分の顔よりずっと痩せていた。大きな二重の目は、愛らしさではなくギラギラした眼光を帯びている。

 日にあたっていない、白い肌。白いと言っても昨日の彼とは違う、ただ不健康なだけの白さだ。

 長いことまともに人と喋っていないからか、のっぺりとした顔をしていた。

 自分はこんな顔をしてたっけと頬に手を当てると、鏡の中の女も同じように頬に手を当てた。


 そうだ、確かにこれは私だ。


 彼から見た、昨日の私は、恐らくこれだろう。

 すっぴんで、ボサボサの髪で、引きこもり特有の、生気のない顔をした、私。

 外に出るならもう少しちゃんとしておけばよかったと、今更ながら後悔した。


 思い出す。あの少し眠たそうな緑色の瞳。

 私より少し若く見えた。十代後半か、二十歳くらいだろうか。


 洗面所の引き出しには、長いこと使っていなかった肌色のBBクリームが入っていた。

蓋を開けると入口の周りは茶色い塊ができている。

 探せばファンデーションくらいあるだろうが、そこまでするのもなんとなく気恥ずかしかったので、夏緒はクリームを丁寧に塗った。

 それから髪をポニーテールに結び、ウォークインクローゼットの扉を開けた。

 最近はほぼリビングに放り出している3セット程度の服で着まわしていたので、ここに入るのも久しぶりだった。

 空気が澱んでおり、埃っぽい。

 白いTシャツに青い膝丈スカートを身に着け、ショルダーバッグにスマホとハンカチ、ティッシュをきちんと入れた。

 靴箱から夏物のサンダルを出し、ちょっと考えてから裸足のまま一歩だけ三和土に出て扉を開ける。


 夏緒の住むアパートは戸建てだった家を改築して四部屋のワンルームに変えたものだ。

 玄関を出ると通路と庭らしき緑があり、その向こうに垣根がある。

 辺りは雨の匂いで満ちていた。雨自体はやはり大したことはないが、沸き立つ土とコンクリートの匂いから、割と長いこと降っていたのだろうとわかる。

 サンダルは諦め、ショート丈の紺色のレインブーツを出し、靴下を引っ張り出した。


 雨の中出かけるのは、どのくらいぶりだろうか。必要がないので、雨が降ったら家から出ない日々が続いていた。

 湿った空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。

 傘を静かに、ゆっくりと濡らしていく雨。

 全てが新鮮で、生まれ変わったような気にすらなった。

 変なことをしている。冒険に出たみたいに、胸が高鳴る。


 例の並木道に出て、辺りを見渡しながら歩いた。間違ったように数匹鳴いているセミの声が聞こえるだけだ。あたりはひっそりとしていて、人気もない。


 馬鹿なことをしている。


 名前すら知らない人。

 どんな人なのかも知らない。

 もしかしたら極悪人かもしれない。

と、考えて、一人で頬を緩める。

 そんなわけがない。あの優しい目が、悪いことをするわけがない、と、何故か自信を持ってそう思う。


 つま先が前に出る度、水滴を飛ばす。

 右、左、右、左。

 音もさせず、ぴょん、ぴょん、と。


 どこに行ったか、手がかりすらない人を、探し出す。

 会える可能性はかなり低いだろう。

 それでも、何故だか、信じている。彼に会える、と。


 茶色い髪の不思議な服装をした白人を見ませんでしたか?なんて通行人に聞けるわけもないし。

と、頭の大部分では会えないとわかっているのに。


 それでもいい。

 見つからずにとぼとぼと、何か適当な言い訳をしながら、この道を歩いて帰ってくることになっても。


 ビニール傘に乗った雨粒を見ながら、夏緒は自分に言い訳をする。


 いいの、これはただの散歩なんだから。

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