深淵―The Abyss―

 ――その男は、どこにでもいるような普通の男だった。


 強いて特徴を挙げるとすれば、周囲の人間より頭が良かったことだ。

 勉強ができるという意味でもそうだったし、頭の回転が速いという意味でもそうで、その頭脳のおかげで男は俗にいうエリートと呼ばれる地位を手に入れることができた。


 ただ、その男には負の部分の特徴もあった。

 感情が動きにくかったというのがそれだ。


 喜びも、悲しみも、驚きも、怒りも……自分の感情があまり動かなかったこともそうだし、他人の感情を上手く読み取れない部分も多かった。

 そういう負の部分があったからこそ、男はエリート街道を進みながらも満たされないものを感じていたし……周囲の人間からも距離を取られていたのだろう。


 寂しいというわけではない、つらいというわけでもない。

 先に述べたように、男は自分の感情を上手く感じ取ることができなかったから、そういった想いを抱くこともなかった。

 ただ漠然とした満たされない思いが常に心の中にあって……ぼんやりとそれを抱えたまま、過ごし続けていただけだ。


 ――そんな男の人生が変わったのは、とある事件がきっかけだった。


 男は会社の命令で遠い地に出張することになり、その移動のために船に乗った。

 その船が……多くの乗客たちを乗せたまま、海の底に沈没したのだ。


 とんでもない事故だった。そして、タイミングと場所が悪かった。

 本当に最悪なことに、事故の発生から救助が到着するまで、およそ一週間という長い時間がかかってしまったのである。


 救助が到着するまでの間、生き残った乗客たちは恐怖に怯えていた。

 幸いにも船は無事だったが、自分たちが生きたまま引き上げられるかはわからない。むしろ、生き延びられる可能性の方が圧倒的に低いだろう。


 それを理解しながらも生きたいと願うのが人間という生き物だ。

 いや……のが、と言った方が正しいだろう。


 死への恐怖を、生への執着を、誰もが抱いていた。

 生きてこの深淵から這い出たいと、事故に巻き込まれた人々が心の底から願う中……誰かが、こんなことを言う。


「この人数が船の中で呼吸していたら、あっという間に酸素がなくなるぞ」


 その言葉が、状況を一変させた。

 誰もが死にたくないという欲望のままに、倫理も法律も無視した行動を取り始めた。


 まず最初に、自分たちを事故に巻き込んだ船員たちは責任を取るべきだと、そういう話になった。

 乗客たちは自分たちをこんな目に遭わせたという怒りを燃え上がらせながら船員たちに詰め寄り、その全員を殺害した。


 次に、老い先短い老人たちは死ぬべきだという話になった。

 中にはその意見に同意し、自らの死を受け入れる者もいたが……大半はそれでも死を拒み、生き延びようとしたところを他の乗客たちに殺された。

 殺された老人たちの中には自分の家族に殺められた者もおり、既に一線を越えた人々はそこからも狂気に憑りつかれたように生きるために他者を殺していった。


 子供だから、病人だから、貧乏だから、金持ちだから……理由は何でも良かった。ただ、他人を排除できる理由が見つけられればそれで良かったのだ。

 そうやって一人、また一人と人が殺され、死体が増え、代わりに狂気が満ちていく。


 昨日まで愛し合っていた二人が互いに殺し合い、仲の良かった家族が崩壊し、狂った状況に耐えられなかった者が自ら命を絶つ。

 外界から隔絶された海の底では、狂気の宴が繰り広げらていた。


 そんな状況に巻き込まれた男は、生まれて初めて自分の感情が激しく揺さぶられていることに息を飲んだ。

 恐怖や絶望に、ではない。男は……歓喜と興奮を覚えていたのである。


 この殺戮が始まるきっかけとなった、最初の一言……残りの酸素を心配するあの言葉を発したのは、この男だった。

 自分の一言がきっかけで人々は殺し合いを始め……生き残りたいという欲望を、生への執着を剝き出しにした、醜い姿を曝け出し始めたのだ。


 今までに感じたことのない興奮だった。自分が他人を操り、破滅させ、その全てをコントロールできるという感覚に恍惚とした喜びを覚えてしまった。

 その後にもっともらしい理由をつけて人々を扇動し、殺し合いを誘発させて……混沌を加速させていった男は、数多くの死を目の当たりにすると共に歓喜の感情と欲望を抱く。


 もっと見たい。もっと引き出したい。自分の手で人々の醜い姿と欲望を生み出す舞台を作り上げて、人間と世界が破滅していく様を楽しみたい。

 沈没した船の中という小さな世界の中で、男はそう思った。そう思い続けながら……他の乗客共々、命を落とした。


 ただ……男のその願いは、死後に叶うことになった。

 別の世界で復活を果たしたその男は、自らをコンダクターと称すると共にかつての名を捨て、新たな名前を得る。


 自らの感情を揺さぶり、本当の自分が引き出されたあの日の出来事を忘れぬよう、自らの代表作とでもいうべきあの舞台で味わった歓喜をいつでも感じられるよう、男は自らの名にあの舞台の名を付けた。


 かくして、から這い出た狂気の怪物は新たな名と全てを指揮するコンダクターという立場を得て、これまで数々の世界を自らの舞台に変え、滅ぼしてきたのである。


 そして……その名と名声を高めた彼は今、次なる公演の最終章の指揮を取ろうとしている。

 何もかもをという名の深淵に引き摺り込むために……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る