side:主人公(全てを知っていたはずだった男の敗北)

(ど、どうしてラッシュがここに……!? まさか、生き延びていたのか……!?)


 現れるはずのない敵キャラであり、自分にとって因縁の相手でもある黒い蟹の怪物の登場に動揺するゼノン。

 ほんの数秒前までの余裕たっぷりといった態度は完全に消え去っており、半ばパニック状態に陥っている。


 いったいどうして、トードスティンガーではなくこの魔鎧獣が姿を現したのか? また何かイベントに変化が起きたということだろうか?

 全てを理解していた状況から一変、メルトたちと同じかそれ以上の困惑と動揺を抱き始めた彼の周囲では、黒い蟹の魔鎧獣の姿を目にした取り巻きの生徒たちがざわざわと騒ぎ始めていた。


「あ、あいつは何なんだ……!? 見たことないぞ!?」


「まさか、あいつが村の人たちを操っているのか……?」


「大丈夫よ! 私たちにはゼノン様がいるわ! ゼノン様なら、絶対にあいつをやっつけてくれるわよ!」


「そっ、そうだな! ゼノンさんに任せれば大丈夫だ!」


「うっ……!?」


 取り巻きたちからの期待の眼差しを受けたゼノンが苦し気に呻く。

 今しがた、堂々と彼らの前で自分に任せろと発言してしまった手前、あの蟹の相手はしたくないとは口が裂けても言えないだろう。


 こんなことになるなんて……と、予想もしていなかった展開に困惑しながら、武器を構えるゼノン。

 しかし、魔鎧獣の姿を捉える剣の切っ先は小刻みに震えており、彼が強い恐怖を感じていることは明らかだった。


(あ、あいつに剣での攻撃は効かない。甲殻が硬すぎてこの武器じゃあ前と同じように弾かれる。炎属性の魔法は効くか? でも蟹って水辺の生き物だろ? 炎に耐性とか持ってるんじゃないのか!?)


 あの魔鎧獣を倒す方法を考えれば考えるほど、思考はマイナスの方向に引っ張られていく。

 刻まれているのだ、本能に。あの蟹への恐怖が、ラッシュに叩きのめされた時の痛みと苦しみと絶望と共にゼノンの心の奥底に拭えぬ記憶として深々と刻み込まれている。


 遊びでプレイするゲームの中でも、トラウマレベルとまで呼ばれる凶悪な性能をした敵キャラというのは多分に存在している。

 もう二度と戦いたくないとゲーマーたちが口をそろえて言うような敵が、ゼノンにとっては今、目の前にいるあの魔鎧獣だった。


 そしてもう一つ、彼は意識しているようでしていないことがある。

 この世界は、今、彼が経験している戦いは……ゲームではない。殴られれば痛いし、血が出るし、死ぬ危険性だってある。


 『ルミナス・ヒストリー』そっくりの世界だったとしても、その中に入り込んでいる以上、安全な場所からボタンを押しているだけのゲームとは何もかもが違う。

 痛い目に遭うのも、命の危険に晒されるのも、主人公であるゼノンこと灰野瀬人その人なのだということを、彼はほとんど理解していなかった。


「う、あ、う、うあぁ……っ!?」


 味わうのは高揚感や興奮だけではない、痛みや恐怖といった負の感覚だってそうだ。

 それをようやく思い知らされたゼノンであったが、何もかもが全て遅すぎた。


「アッシュくん、危ないっ!」


「うああああああっ!?」


 メルトの声にはっとしたゼノンは、自分の目の前にまで近付いてきていた魔鎧獣の姿を見て、体を強張らせる。

 恐怖で頭の中がいっぱいになっていたせいで敵の動きをまるで見ていなかったと、勝手に恐怖という名の状態異常に陥っていた彼は、何一つ身動きすることもできずに蟹爪の一撃を受けて地面に倒れ伏した。


「あがっ、がっ……! い、嫌だ、嫌だぁ……!!」


 思い出すのはラッシュに敗北した時の恐怖。死んでしまう、殺されてしまうという恐れが生み出す絶望。

 地面に倒れ伏したゼノンは屈辱と恐怖の記憶をフラッシュバックさせると共に、完全にパニック状態に陥ってしまった。


「ギギッ、ギッ、ギィイッ……」


「ぐえっ!? ぐうぅっ! あっがぁっ!?」


 ラッシュにされたのと同じように、体を踏みつけられる。

 何度も、何度も、何度も、何度も……トラウマを穿り返されるように、格付けを完全なるものにするようにしてストンプを繰り出されているゼノンのことを、周囲で見ている生徒たちは誰も助けようとしない。


 唯一、メルトが魔力剣を飛ばして彼を援護するも、その時にはもう完全にゼノンの心は折れていた。

 虚ろな目をしてぐったりとしている彼に群がった暴徒たちは、そのままゼノンを迫っていた赤い霧の中に放り込んでしまう。


「そんな、アッシュくんが……!」


 あまりにも呆気なくゼノンが敗北してしまったことに呆然とするメルトであったが、彼女以外の生徒たちはもっとひどい。

 旗頭として担ぎ上げていたゼノンが、あんなにも頼もしい姿を見せていた彼が、あっさりと敗北して退場してしまったことで、恐慌状態へと陥っている。


「う、うわ~っ!? ゼノンさんがやられた! もうダメだ~っ!!」


「お終いよ! 私たちはお終いなんだわ!」


「みっ、みんなっ! 落ち着いて! 落ち着くの! まだ十分戦えるだけの戦力はある! 協力すれば、戦いながら撤退することだって――」


 パニックになっている仲間たちを落ち着かせようとするメルトの声が夜の闇に響く。

 しかし、誰一人として彼女の話を聞いている者はおらず、それぞれが好き勝手に行動しているせいで状況は更に悪くなっていった。


「助けてっ! 助けて~っ!」


「死にたくない! 死にたくない!!」


 泣き叫びながら逃亡を図り、足をもつれさせて転んでしまう者。

 ただただ喚くばかりで何もできず、群がってきた暴徒に捕まってしまう者。

 一人、一人と仲間が自滅し、霧の中に放り込まれていく様を見ていることしかできないメルトは、ギリギリの精神状態になりながら首を振る。


「どうすればいいの……? このままじゃ、私たち……」


 全滅だ、という言葉を口にしかけたその瞬間、蟹の魔鎧獣が彼女に襲い掛かろうと爪を振り上げる。

 一拍反応が遅れたメルトが咄嗟に防御姿勢を取ったその時、あの老婆が鉈を手に魔鎧獣へと挑みかかっていった。


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