寄生回路

こぼねサワー

第1話(完結)

「この世界が5分前に誕生したものだとしても、それを知るすべは人間にはない」と、どこかの哲学者が言ったそうだ。


 例えるならば童話。

「むかしむかし、あるところに美しいお姫様が住んでいました」……その一文で、私の脳の中に、金色の長い髪の王女と、緑濃みどりこき丘をのぞむ白亜の城、王室を彩る貴族たちや、城門を守る甲冑かっちゅうの騎士、行商人の行きかう活気ある城下町が誕生する。

 それは、虚構でありながら、まぎれもないひとつの「記憶」として脳の中に住み続ける。


 あるいは「既視感デジャヴ」というやつ。初めて見た景色なのに、いつか見たことがあるという確信に近いノスタルジーにとらわれる。あの甘酸っぱい神秘も、単なる記憶回路のシステムエラーにすぎないらしい。

 無数の記憶回路のうちのひとつがつなぎそこなっただけの、あじけない物理的現象に他ならないという。


 ひょっとすると、「私」とそれをとりまく世界そのものが「既視感デジャヴ」そのものの「現象」にすぎないかもしれない疑念さえ、完全に否定することは不可能だ。


 この世界が、そんな「虚構の記憶」ではないと言い切るすべを、たしかに私は持たない。

「私のいる世界」を気まぐれに誕生させた脳……「宿主」に寄生する虚構の記憶のひとつにすぎないという可能性を否定しきれる方法がない。


 私が立っている高層ビルの屋上から、今すぐ飛びおりたとしても、果たして本当に「私が死ぬ」ということになるのか、それすら不確かなのだ。

 あるいは、この「虚構の世界から目覚める」のだとして、目覚めるのが今の「私」なのかどうか。

「私」を生み出した脳の宿主の、その虚構の記憶のうちの1つが途切とぎれるだけのことかもしれない。


 夜に見た夢を朝目覚めた瞬間にキレイさっぱり忘れるくらいの、とるにたらない軽率さで消滅する、そんな危うい幻が、私の住む世界であり、私がそれをいろどる背景の一角にすぎないかもしれないことを、否定するすべはない。


 だから、確かめたい。私の消滅が、本当に私という実体の死であるのか。あるいは、もっと高次な世界にいる誰かの記憶回路のひとつにすぎないかもしれない「この世界の消滅」を意味するのか。


 ひょっとすると、「誰かの脳」の「虚構の記憶に派生した世界」の中に住む背景モブの1人が、無意味な死を遂げるだけかも。

 宿主の脳に寄生した記憶の回路の、そこから幾重いくえにも枝分かれした、さらなる微細な寄生回路の消滅という、とるに足らないミクロな物理的現象。

 ――どちらにせよ、なんてちっぽけで無意味な私の存在だ。惜しむべくもない……。


 かくして、みずからの妄想に思考を支配された男は、真夜中の高層ビルの屋上から飛び降りた。

 はたして彼は、単純に、その世界の中で実体として死をとげたのか? それとも、彼の全身がアスファルトに叩きつけられた瞬間、世界そのものが消滅したかもしれないし、ひょっとすると、あなたが今夜見る夢で出会う誰かに姿を変えたかもしれない。


 もしも仮に、あなた自身と、あなたをとりまく世界の全てが、この物語と同時に生まれたのだとしても、あなたは決して気付くすべを持たないだろう。

 だが、聡明なあなたの思考は、真夜中の高層ビルの存在だとて不確かで信用ならないと気付いているだろうから、この男と同じ愚行にいたる必要はない。




 END

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寄生回路 こぼねサワー @kobone_sonar

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