第三話 一太刀を与えて……

 〝鬼〟の船がやってきた。

 ゴンドワナ商王しょうおうこく最大の港町サラフディンは、その話で持ちきりだった。

 恐怖のあまり、多くの人間があるいは絶望して運命を呪い、あるいは家に籠もって祈りを捧げ、またあるいは、町から逃げ出した。しかし、それだけではない。

 〝鬼〟。

 その名が与える神話的な恐怖には畏敬いけいという感情も含まれる。〝鬼〟について語られる、人の世の出来事とはとうてい思えぬ伝説の数々に魅せられ、憧れに似た感情を抱き、怖れながらも一目その姿を見たさにやってくる人間が跡を絶たない。おかげで、港はいつも以上に人が押し寄せる結果となった。

 それが〝鬼〟。

 どのような形であれ人を惹きつけ、動かさずにはいない存在。

 その〝鬼〟がやってきた。

 その報はもちろん、サラフディンを守るボーラ傭兵団にもすぐに持ち込まれた。

 ゴンドワナ商王しょうおうこくは商人たちが集まり、作りあげた国。その生い立ちから本質的に軍事力とは相性が悪い。『国軍』と呼べるほどのものはなく、国の防衛はほとんどすべて傭兵団頼りである。そのなかでもボーラ傭兵団はゴンドワナ最大の港町であり、レムリア伯爵領のデーヴァヴァルマン、盤古ばんこ帝国ていこく嬴政えいせいと並ぶ『世界三大港町』に数えられるサラフディンの防衛を任されているだけあって規模も大きく、質も高い。大陸でも屈指の傭兵団として知られている。

 そのボーラ傭兵団にして『〝鬼〟が来た!』との報を受けるや否や激震が走り、さざ波のように狼狽ろうばいが伝わった。通常であれば死への恐怖などどこ吹く風と受け流し、血の流れる戦場を口笛を吹いて闊歩かっぽする剛胆な男たち。その男たちが青ざめた顔を並べて団長のもとに集まっていた。

 「どうするんです、団長? 〝鬼〟を捕まえるんですかい?」

 団員のひとりが団長に尋ねた。

 その場に集まる団員たちの全員が、不安と恐怖の表情を隠そうともせずにさらしている。

 臆病おくびょうなのではない。

 卑怯ひきょうなのでもない。

 賢明けんめいなのだ。

 怖れるべきを怖れることは恥ではない。恐れを知らないのは勇敢なのではない。愚かものか狂人。死と隣り合わせの戦場を生き抜いてきた男たちはそのことを骨身に染みて知っていた。

 団長のボーラは四〇を過ぎたばかりの女だった。女とはいえ、背は高く、筋肉は分厚く、気性は猛々たけだけしい。傭兵としての実績は群を抜いている。知る人ぞ知る女海賊ガレノアと並び『天下一の女のなかのおとこ』と称される強者つわものである。

 その『女のなかのおとこ』は団員の問いに対してただ一言、

 「あほう」

 とだけ答えた。

 「そんな真似が出来るか。やつに手を出せば全滅する。それどころか、下手に手を出して怒らせれば、このサラフディンの町そのものが壊滅かいめつする。〝鬼〟をとめられるものはいない。

 『〝鬼〟が現れたら決して手を出さず、けいして遠ざけろ』

 国からもそう厳命げんめいされている。あたしらのやることは〝鬼〟を監視し、サラフディンを出て行くまで見守り、一連の経緯を国に報告することだけだ。いいな。〝鬼〟には絶対に手を出すなよ」

 団長のその言葉に――。

 歴戦の男たちは安堵あんどの息と共に一斉にうなずいた。

 ただひとり、安堵あんどの息ももらさず、うなずくこともしないものがいた。男たちのうなずきの波に逆らうようにただひとり、まっすぐに顔をあげて立っているのは三〇を過ぎたばかりに見える女性だった。

 女性としても小柄と言っていいその体格は、屈強な男たちのなかではひときわ小さく、伝説のなかのこびと族のようにさえ見える。絶世の美女、と言うわけではないが顔立ちは整い、ユリの花のような静かな気品が感じられる。

 もとは、さぞかし良家のお嬢さまだったのだろう。

 そう感じさせる女性だった。

 その小柄な体には不釣り合いなほど巨大な剣を背中に背負っている。この体格でこんな大剣を抜くことは出来ないので、背中にかけたさやの上半分を切り取り、先端だけを引っかけるようにしてある。鍔元つばもとひもで縛っており、戦いとなればこのひもを解いて戦うわけだが、いざというときには力任せに引きちぎって剣を抜く。

 その女性はボーラをまっすぐに見据みすえて言った。

 「いままでお世話になりました。団長。わたしは今日でボーラ傭兵団を退団します」

 その言葉に――。

 まわりを埋め尽くす男たちにざわめきが走った。

 「ああ」

 と、ボーラは短く答えた。

 「やっぱり、行くんだね? シルメル」

 「ええ」

 シルメルという女性はうなずいた。そして、改めて頭をさげると身をひるがえし、それからはもう振り返ることもなくその場をあとにした。

 「……団長」

 団員のひとりがボーラに話しかけた。ボーラは、

 ――なにも言うな。

 と、表情で語った。

 「行かせてやりな。シルメルはこの日のために一〇年間、必死に傭兵として戦ってきたんだ。虫も殺したことのないお嬢さまがね。すべては復讐のため。とめるなんて出来やしないよ」

 ボーラはそれから団員たちに指示した。

 「船の用意をしておきな。夫と子どもと同じ墓に納めてやらなきゃならないからね」


 一〇年前。

 シルメルは一〇年前のあの日の出来事を常に、いまこのとき、この場の出来事として感じてきた。

 ゴンドワナの港町ハールーン。

 シルメルはそのハールーンを本拠とする商人の娘として生まれ、何不自由なく暮らして来た。父が『自分の跡継ぎに』と見込んで婿養子とした夫と、生まれたばかりの子どもに囲まれ、幸せな毎日を送ってきた。

 そんなある日、ハールーンの町に世界でいちばんの災厄がやってきた。

 〝鬼〟。

 〝鬼〟が突然、港に現れ、町を襲ったのだ。

 ハールーンの港は一夜のうちに壊滅した。〝鬼〟とはまさに災厄をまき散らす地獄の獣だった。ハールーンを守る傭兵団などなんの役にも立たなかった。お伽噺とぎばなしに出てくるドラゴンの炎に焼かれる無力な村人のように、叩き斬られた。

 シルメルの住む屋敷も襲われた。父も、母も、夫も、子どもも、すべてが殺された。ただひとり生き残り、その場にへたり込んでいたシルメルに声をかけ、生きるように告げたのは首輪だけをつけた全裸の少女だった。

 「生きて。この町での出来事はわたしが覚えておく。歌にして、〝鬼〟に聞かせる。いつか必ず、町の人たちの悲しみを、苦しみを、〝鬼〟に伝え、良心の呵責かしゃくに苦しませる。だから、あなたは生きて。……殺された人々の分まで」

 少女はそう言ってシルメルを他の生き残りたちと一緒に逃がした。

 少女の言葉通り、シルメルは生きた。ただし、その目的はあくまでも復讐。〝鬼〟に殺された夫と子どものかたきを取ること。

 そのために、ボーラ傭兵団に入った。

 台所に出るゴキブリ一匹、殺したことすらない身で剣を握り、数多あまたの戦場を駆け巡った。汚れを知らずに育った身を血に染めて、戦いのなかを生き抜いた。

 すべてはかたきをとるため。

 それができる力を手に入れるため。

 そして、いま、そのときは来た。

 「……あなた。坊や。まっていて」

 その言葉を胸に――。

 シルメルは〝鬼〟に立ち向かう。


 シルメルはひとり、〝鬼〟の船へとやってきた。遠巻きに見守る人々からはなれて。出迎えたのは首輪だけをつけた全裸の少女。その姿にははっきりと見覚えがあった。一〇年前のあの日、シルメルに生きるよう告げた少女だ。

 ――一〇年前とまるでかわっていない。

 そのことを意外とは思わなかった。もとより、〝鬼〟とは人外の存在。人の世のことわりとらわれることのない地獄の獣。ならば――。

 その〝鬼〟と共にあるこの少女もまた、人の世のことわりに従う存在であるはずがなかった。

 「……あなたのことは覚えているわ」

 少女――〝詩姫うたひめ〟は言った。

 「ハールーンの港にいた人ね。あなただけじゃない。あの日、ハールーンにいたすべての人をわたしは覚えている。その恐怖を、悲しみを、無念を、わたしはすべて覚え、歌として〝鬼〟に聞かせてきた。わたしはいつか必ず〝鬼〟の良心を呼び覚まし、自分の行いを理解させ、苦しみを与える。だから、帰って。〝鬼〟に挑めば殺される。〝鬼〟のことはわたしに任せて、あなたは生きて。……殺された夫君ふくんや子どものためにも」

 「あいにくだけど」

 シルメルは静かに、しかし、揺らぐことのない覚悟を込めて答えた。

 「わたしはあなたのように、ただの傍観ぼうかんしゃでいることはできないの」

 〝詩姫うたひめ〟とシルメル。

 〝鬼〟を巡るふたりの女の視線が空中で絡みあった。

 道を譲ったのは〝詩姫うたひめ〟だった。その場を退しりぞき、シルメルを通した。

 船の甲板かんぱんにあがったシルメルの前に〝鬼〟がその姿を現わした。

 筋肉は熊。

 息はドラゴン。

 瞳に燃えるは原初の混沌こんとん

 その禍々まがまがしさとは裏腹に、妙に人好きのする愛嬌あいきょうのある笑みを浮かべている。

 「よう。お客さんかい?」

 と、まるで老舗しにせ旅館りょかん亭主ていしゅのように声をかける。

 「わたしはシルメル。ハールーンのシルメル。一〇年前、あなたが滅ぼしたハールーンの町の生き残りよ」

 「ハールーン?」

 〝鬼〟が小首をかしげた。

 本気で不思議がっている表情だった。

 「覚えてねえなあ。なにしろ、町を滅ぼすなんざいつものことだからなあ」

 そのとき、〝詩姫うたひめ〟が歌を唄いはじめた。

 理不尽に殺された人々の怒りを、恐怖を、無念を、あますところなく伝える歌。聞くものすべてが悲しみに打ちひしがれ、涙を流し、その苦しみを我がこととして感じとる。そんな歌。

 そんな歌を聞いて〝鬼〟はしかし、楽しそうに笑って見せた。

 「おう、そうか。この歌の舞台か。それならわかるぜ。で、その生き残りがなんの用だい?」

 「夫と子どものかたき

 シルメルは静かに言うと背中の剣をとった。

 クレイモア。

 そう呼ばれる剣である。

 両手剣と呼ばれる大型の剣のなかでは小ぶりな方で、刃は薄く、鋭い切れ味を誇っている。両手剣の重さと片手剣の切れ味をあわつ剣である。〝鬼〟という、分厚い筋肉の鎧をまとった怪物を斬るためにシルメルが選び、一〇年の時をかけて扱えるようにした武器だった。

 「これはあくまでも、わたし個人の復讐。この町とも、町を守る傭兵団とも関係のないこと。いいわね?」

 「おう。承知した」

 〝鬼〟は楽しそうに答えた。これから決闘がはじまるとは思えない、どこにも力の入っていない、なんとも自然な立ち姿だった。そして、その手には――。

 なんの武器ももたれていない。

 「素手? あのときの大刀たいとうはどうしたの?」

 「ああ、あれか」

 と、〝鬼〟は妙に照れた様子で頭などをかいて見せた。

 「ありゃあ、この間、人にやっちまってな」

 「人にやった?」

 「おう。威勢いせいの良い小僧に会ったもんでな。その場の勢いっていうか、まあ、そんなもんでくれてやっちまったのさ」

 〝鬼〟はそう言って笑った。

 故郷を滅ぼされ、家族を皆殺しにされたシルメルでさえ、思わず好意をよせ、友だちになりたくなる。そんな、愛嬌あいきょうたっぷりの人好きのする笑顔だった。

 「まあ、安心しな。素手でもお前さんの手に負える相手じゃねえからよ」

 「そう」

 と、シルメルは気を引き締めた。クレイモアのつかをギュッと握りしめた。

 「もうひとつ、聞いておきたいことがあるわ。あなたはあの日、どうして、ハールーンを襲ったの?」

 「さあて、覚えてねえなあ。おい、〝詩姫うたひめ〟。おれはなんでハールーンとやらを襲ったんだ?」

 「……あなたはあの日、船の甲板かんぱんで大の字になって寝ていた。起きあがると言ったのよ。

 『今日はるのに良い日だ』って。

 そして、たまたま近くにあったハールーンを襲った」

 「ほう、そうか。お前が言うならまちがいねえな。おい、そういうことだそうだぜ。おめえ、よ」

 「そう」

 と、シルメルはむしろ、納得したように答えた。

 「あなたらしい。なぜか、そう思えるわ」

 その言葉を最後に――。

 シルメルは走った。両手にもったクレイモアを思いきり振りあげ、振りおろした。その刃は――。

 途中でとまっていた。

 〝鬼〟がその手で剣身を握っていた。手甲はおろか、手袋さえしていないまったくの素手。その素手で剣を握りしめながら血の一滴も流れていなかった。

 刃が届いていないのではない。刃はたしかに届いている。〝鬼〟の手のひらに食い込み、皮膚をへこませている。それなのに、斬れていない。

 どれほど優れた刃物も、ただ押しつけるだけでは斬れはしない。押す力に加え、前後に動かすという動作が合わさることではじめて斬れる。

 人が剣を振ればその軌道は自然と弧を描く。腕の構造上、そうなるように出来ている。その弧の動きのなかに自然と『引いて斬る』という動作が含まれる。だから、斬ることが出来る。

 〝鬼〟は、常識の通用しない握力にものを言わせて剣身を握りしめ、動かなくしていた。『引いて斬る』ことができなくなったため、皮膚の一枚すら斬ることが出来ないのだ。

 高らかな音が響いた。

 〝鬼〟が手に力を込めると、ただそれだけでクレイモアの剣身はガラス細工のように砕け散った。細かく割れた金属の破片が、光を反射しながらパラパラと舞い落ちていく。それはさながら、命の散る様を表現しているようだった。

 シルメルはクレイモアのつかから両手をはなした。

 駆けた。

 〝鬼〟にしがみついた。

 両足をからめ、腕を背中にまわし、爪を立てた。

 大きく口を開き、〝鬼〟の首筋にかみついた。

 たらり、と、鬼の首から一筋の血が流れた。

 金属の刃ですら裂くことの出来なかった〝鬼〟の皮膚を、小柄な女性の歯が食い破っていた。

 〝鬼〟を相手に、意思なき金属の一撃など無意味。覚悟を込めた生身の攻撃だけが有効な一撃だった。

 ニヤリ、と、〝鬼〟は笑った。

 「大したもんだぜ。おめえ、よ」

 〝鬼〟はシルメルの体に腕をまわした。愛情さえ込めているかのような表情で小柄な体を抱きしめた。

 骨が、

 内臓が、

 〝鬼〟の腕力に押しつぶされる。

 〝鬼〟の首筋に歯を突き立てたまま――。

 復讐の女戦士は息絶えていた。


 シルメルの遺体は船の甲板かんぱんに安置されていた。

 〝鬼〟の姿はすでにない。船室に引っ込み、高いびきをかいている。

 ただひとり、〝詩姫うたひめ〟だけが物言わぬ死体となったシルメルを見下ろしている。

 「……満足そう」

 〝詩姫うたひめ〟は呟いた。

 「せめて一太刀。せめて一太刀、〝鬼〟に与え、夫と子どものもとに行く。それがあなたの望みだった。だからこそ、〝鬼〟もあなたの一撃を受けた」

 〝鬼〟はシルメルの願いを叶えた。だからこそ、シルメルは死ななくてはならなかった。人ならざるものへの願いはただ、己の生命を捧げることでのみ叶えられるのだから。

 「……あなたのことは覚えておく。歌にして〝鬼〟に聞かせる。いつか必ず、〝鬼〟に良心の苦しみを与えてみせる」

 そして、〝詩姫うたひめ〟はシルメルの遺体を引き取りに来たボーラ傭兵団に引き渡し、再び〝鬼〟のもとへ向かった。〝鬼〟に殺された人々の怒りを、恐怖を、悲しみを、そのすべてを〝鬼〟に唄って聞かせるために。

                  完

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人々は、その海賊をただ〝鬼〟と呼んだ 藍条森也 @1316826612

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