第三話 一太刀を与えて……
〝鬼〟の船がやってきた。
ゴンドワナ
恐怖のあまり、多くの人間があるいは絶望して運命を呪い、あるいは家に籠もって祈りを捧げ、またあるいは、町から逃げ出した。しかし、それだけではない。
〝鬼〟。
その名が与える神話的な恐怖には
それが〝鬼〟。
どのような形であれ人を惹きつけ、動かさずにはいない存在。
その〝鬼〟がやってきた。
その報はもちろん、サラフディンを守るボーラ傭兵団にもすぐに持ち込まれた。
ゴンドワナ
そのボーラ傭兵団にして『〝鬼〟が来た!』との報を受けるや否や激震が走り、さざ波のように
「どうするんです、団長? 〝鬼〟を捕まえるんですかい?」
団員のひとりが団長に尋ねた。
その場に集まる団員たちの全員が、不安と恐怖の表情を隠そうともせずにさらしている。
怖れるべきを怖れることは恥ではない。恐れを知らないのは勇敢なのではない。愚かものか狂人。死と隣り合わせの戦場を生き抜いてきた男たちはそのことを骨身に染みて知っていた。
団長のボーラは四〇を過ぎたばかりの女だった。女とはいえ、背は高く、筋肉は分厚く、気性は
その『女のなかの
「あほう」
とだけ答えた。
「そんな真似が出来るか。やつに手を出せば全滅する。それどころか、下手に手を出して怒らせれば、このサラフディンの町そのものが
『〝鬼〟が現れたら決して手を出さず、
国からもそう
団長のその言葉に――。
歴戦の男たちは
ただひとり、
女性としても小柄と言っていいその体格は、屈強な男たちのなかではひときわ小さく、伝説のなかのこびと族のようにさえ見える。絶世の美女、と言うわけではないが顔立ちは整い、ユリの花のような静かな気品が感じられる。
もとは、さぞかし良家のお嬢さまだったのだろう。
そう感じさせる女性だった。
その小柄な体には不釣り合いなほど巨大な剣を背中に背負っている。この体格でこんな大剣を抜くことは出来ないので、背中にかけた
その女性はボーラをまっすぐに
「いままでお世話になりました。団長。わたしは今日でボーラ傭兵団を退団します」
その言葉に――。
まわりを埋め尽くす男たちにざわめきが走った。
「ああ」
と、ボーラは短く答えた。
「やっぱり、行くんだね? シルメル」
「ええ」
シルメルという女性はうなずいた。そして、改めて頭をさげると身をひるがえし、それからはもう振り返ることもなくその場をあとにした。
「……団長」
団員のひとりがボーラに話しかけた。ボーラは、
――なにも言うな。
と、表情で語った。
「行かせてやりな。シルメルはこの日のために一〇年間、必死に傭兵として戦ってきたんだ。虫も殺したことのないお嬢さまがね。すべては復讐のため。とめるなんて出来やしないよ」
ボーラはそれから団員たちに指示した。
「船の用意をしておきな。夫と子どもと同じ墓に納めてやらなきゃならないからね」
一〇年前。
シルメルは一〇年前のあの日の出来事を常に、いまこのとき、この場の出来事として感じてきた。
ゴンドワナの港町ハールーン。
シルメルはそのハールーンを本拠とする商人の娘として生まれ、何不自由なく暮らして来た。父が『自分の跡継ぎに』と見込んで婿養子とした夫と、生まれたばかりの子どもに囲まれ、幸せな毎日を送ってきた。
そんなある日、ハールーンの町に世界でいちばんの災厄がやってきた。
〝鬼〟。
〝鬼〟が突然、港に現れ、町を襲ったのだ。
ハールーンの港は一夜のうちに壊滅した。〝鬼〟とはまさに災厄をまき散らす地獄の獣だった。ハールーンを守る傭兵団などなんの役にも立たなかった。お
シルメルの住む屋敷も襲われた。父も、母も、夫も、子どもも、すべてが殺された。ただひとり生き残り、その場にへたり込んでいたシルメルに声をかけ、生きるように告げたのは首輪だけをつけた全裸の少女だった。
「生きて。この町での出来事はわたしが覚えておく。歌にして、〝鬼〟に聞かせる。いつか必ず、町の人たちの悲しみを、苦しみを、〝鬼〟に伝え、良心の
少女はそう言ってシルメルを他の生き残りたちと一緒に逃がした。
少女の言葉通り、シルメルは生きた。ただし、その目的はあくまでも復讐。〝鬼〟に殺された夫と子どもの
そのために、ボーラ傭兵団に入った。
台所に出るゴキブリ一匹、殺したことすらない身で剣を握り、
すべては
それができる力を手に入れるため。
そして、いま、そのときは来た。
「……あなた。坊や。まっていて」
その言葉を胸に――。
シルメルは〝鬼〟に立ち向かう。
シルメルはひとり、〝鬼〟の船へとやってきた。遠巻きに見守る人々からはなれて。出迎えたのは首輪だけをつけた全裸の少女。その姿にははっきりと見覚えがあった。一〇年前のあの日、シルメルに生きるよう告げた少女だ。
――一〇年前とまるでかわっていない。
そのことを意外とは思わなかった。もとより、〝鬼〟とは人外の存在。人の世の
その〝鬼〟と共にあるこの少女もまた、人の世の
「……あなたのことは覚えているわ」
少女――〝
「ハールーンの港にいた人ね。あなただけじゃない。あの日、ハールーンにいたすべての人をわたしは覚えている。その恐怖を、悲しみを、無念を、わたしはすべて覚え、歌として〝鬼〟に聞かせてきた。わたしはいつか必ず〝鬼〟の良心を呼び覚まし、自分の行いを理解させ、苦しみを与える。だから、帰って。〝鬼〟に挑めば殺される。〝鬼〟のことはわたしに任せて、あなたは生きて。……殺された
「あいにくだけど」
シルメルは静かに、しかし、揺らぐことのない覚悟を込めて答えた。
「わたしはあなたのように、ただの
〝
〝鬼〟を巡るふたりの女の視線が空中で絡みあった。
道を譲ったのは〝
船の
筋肉は熊。
息はドラゴン。
瞳に燃えるは原初の
その
「よう。お客さんかい?」
と、まるで
「わたしはシルメル。ハールーンのシルメル。一〇年前、あなたが滅ぼしたハールーンの町の生き残りよ」
「ハールーン?」
〝鬼〟が小首をかしげた。
本気で不思議がっている表情だった。
「覚えてねえなあ。なにしろ、町を滅ぼすなんざいつものことだからなあ」
そのとき、〝
理不尽に殺された人々の怒りを、恐怖を、無念を、あますところなく伝える歌。聞くものすべてが悲しみに打ちひしがれ、涙を流し、その苦しみを我がこととして感じとる。そんな歌。
そんな歌を聞いて〝鬼〟はしかし、楽しそうに笑って見せた。
「おう、そうか。この歌の舞台か。それならわかるぜ。で、その生き残りがなんの用だい?」
「夫と子どもの
シルメルは静かに言うと背中の剣をとった。
クレイモア。
そう呼ばれる剣である。
両手剣と呼ばれる大型の剣のなかでは小ぶりな方で、刃は薄く、鋭い切れ味を誇っている。両手剣の重さと片手剣の切れ味を
「これはあくまでも、わたし個人の復讐。この町とも、町を守る傭兵団とも関係のないこと。いいわね?」
「おう。承知した」
〝鬼〟は楽しそうに答えた。これから決闘がはじまるとは思えない、どこにも力の入っていない、なんとも自然な立ち姿だった。そして、その手には――。
なんの武器ももたれていない。
「素手? あのときの
「ああ、あれか」
と、〝鬼〟は妙に照れた様子で頭などをかいて見せた。
「ありゃあ、この間、人にやっちまってな」
「人にやった?」
「おう。
〝鬼〟はそう言って笑った。
故郷を滅ぼされ、家族を皆殺しにされたシルメルでさえ、思わず好意をよせ、友だちになりたくなる。そんな、
「まあ、安心しな。素手でもお前さんの手に負える相手じゃねえからよ」
「そう」
と、シルメルは気を引き締めた。クレイモアの
「もうひとつ、聞いておきたいことがあるわ。あなたはあの日、どうして、ハールーンを襲ったの?」
「さあて、覚えてねえなあ。おい、〝
「……あなたはあの日、船の
『今日は
そして、たまたま近くにあったハールーンを襲った」
「ほう、そうか。お前が言うならまちがいねえな。おい、そういうことだそうだぜ。おめえ、よ」
「そう」
と、シルメルはむしろ、納得したように答えた。
「あなたらしい。なぜか、そう思えるわ」
その言葉を最後に――。
シルメルは走った。両手にもったクレイモアを思いきり振りあげ、振りおろした。その刃は――。
途中でとまっていた。
〝鬼〟がその手で剣身を握っていた。手甲はおろか、手袋さえしていないまったくの素手。その素手で剣を握りしめながら血の一滴も流れていなかった。
刃が届いていないのではない。刃はたしかに届いている。〝鬼〟の手のひらに食い込み、皮膚をへこませている。それなのに、斬れていない。
どれほど優れた刃物も、ただ押しつけるだけでは斬れはしない。押す力に加え、前後に動かすという動作が合わさることではじめて斬れる。
人が剣を振ればその軌道は自然と弧を描く。腕の構造上、そうなるように出来ている。その弧の動きのなかに自然と『引いて斬る』という動作が含まれる。だから、斬ることが出来る。
〝鬼〟は、常識の通用しない握力にものを言わせて剣身を握りしめ、動かなくしていた。『引いて斬る』ことができなくなったため、皮膚の一枚すら斬ることが出来ないのだ。
高らかな音が響いた。
〝鬼〟が手に力を込めると、ただそれだけでクレイモアの剣身はガラス細工のように砕け散った。細かく割れた金属の破片が、光を反射しながらパラパラと舞い落ちていく。それはさながら、命の散る様を表現しているようだった。
シルメルはクレイモアの
駆けた。
〝鬼〟にしがみついた。
両足を
大きく口を開き、〝鬼〟の首筋にかみついた。
たらり、と、鬼の首から一筋の血が流れた。
金属の刃ですら裂くことの出来なかった〝鬼〟の皮膚を、小柄な女性の歯が食い破っていた。
〝鬼〟を相手に、意思なき金属の一撃など無意味。覚悟を込めた生身の攻撃だけが有効な一撃だった。
ニヤリ、と、〝鬼〟は笑った。
「大したもんだぜ。おめえ、よ」
〝鬼〟はシルメルの体に腕をまわした。愛情さえ込めているかのような表情で小柄な体を抱きしめた。
骨が、
内臓が、
〝鬼〟の腕力に押しつぶされる。
〝鬼〟の首筋に歯を突き立てたまま――。
復讐の女戦士は息絶えていた。
シルメルの遺体は船の
〝鬼〟の姿はすでにない。船室に引っ込み、高いびきをかいている。
ただひとり、〝
「……満足そう」
〝
「せめて一太刀。せめて一太刀、〝鬼〟に与え、夫と子どものもとに行く。それがあなたの望みだった。だからこそ、〝鬼〟もあなたの一撃を受けた」
〝鬼〟はシルメルの願いを叶えた。だからこそ、シルメルは死ななくてはならなかった。人ならざるものへの願いはただ、己の生命を捧げることでのみ叶えられるのだから。
「……あなたのことは覚えておく。歌にして〝鬼〟に聞かせる。いつか必ず、〝鬼〟に良心の苦しみを与えてみせる」
そして、〝
完
人々は、その海賊をただ〝鬼〟と呼んだ 藍条森也 @1316826612
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