第二話『白昼夢の自由な彼女』

 チェックのスカートに目が吸い寄せられる。最期だというのに、そんなモノに吸い寄せられる自分の脳に落胆した。

「だーめ、見えないよー? 丁度良いとこに目があってもねー」

 少女のように見えても、俺の歳から見ればの話で、彼女は十代も終わりかそのくらいだろう。

 だがどうしてか彼女はその容貌の割に大人びて見えた。スラリとしていて、そのストレートの黒髪が長いからだなんて、そんな短絡的な理由なのかもしれないが、制服とは少し違和感がああった。、

 そして、肝心の冥土の土産を目に焼き付けられないほんの少し不運に少しだけ笑えた。とはいえ本当に運が悪いと思っているわけじゃない。彼女がもし、俺の記憶の通りに未成年であれば、これが俺の幻想だとしても何とも倫理観に欠けている気がして、気に病まれるが、もうそんな事を考えるような状況ではない。

 

 それ以上に、顔を見て古い記憶が蘇っていくのを感じた。


――どうして、あの時のままなんだ。


「そりゃあキミさ、そんな事してるんだからこの世の神様は微笑まない。けれど私は笑ってあげようじゃないか! この世を見捨てて先走る奴にゃあ風一つ吹かせちゃくれないけれど、私は風を吹かせてあげようじゃないか! けれどさ、死んだら何も無いよ? ……いや、分からないか。まだ君も私も本当の意味で死んじゃあいないもんね?」

 そりゃあそうか、と俺は彼女の顔を見る。

 ところで、どうして俺は空中で、真っ逆さまになりながら、彼女の声を聞いているのだろう。捲れるスカートはモノクロ模様で、その黒い瞳には吸い寄せられるどころか、吸い込まれそうだった。


「でもね、葛籠抜ツヅラヌキアクタクン。キミがもしも私と手を繋げるなら、その瞬間世界は色づくとは思わない?」

 語感からクズと間違われる面倒な名字も、アクが目立つ奇妙な名前も、ハッキリと口にした。

 彼女は俺の名前を知っている。同時に俺も、この十歳も年下の彼女の名前を知っている。


 それもそのはず、彼女と俺は、こんな状況だというのに初対面では無かった。けれど明らかな幻、おそらくこれは俺が見ている白昼夢だ。本当の意味で死んじゃいないなんていう彼女の言葉も、嘘だ。


――だって彼女は、石鐘響いしがねひびくは、俺が高校三年生の時に死んでいるのだから。


 十年以上も前の事だ。

 だからすぐには思い出せなかったが、よく見るとチェックのスカートは、高校の制服だった。

 そんな事は、起き得ないし、ありえない。だからやはりこれは幻想で、俺は彼女との心中なんてものを密かに望んでいたのかもしれない。


――だって、救えなかったもんな。


 妄想の中で心中……確かにそれも悪くはない。

 だけれど、此処にいるのは幻影を見る俺だけだ。

 だけれどこの幻影が言う通りに、もし俺が彼女と手を繋げていたなら、もう少しはマシな人生だったかもしれないと、そう思った。

「何か言ってよ、なんてね。言える訳無いかー。最期に何か言う事はあるかい? わざわざ時間を止めているのも億劫だ。落ちながら聞いてあげるよ」

 その言葉と一緒に、このモノクロの風景がゆっくりと色づいていく。


 きっと、夢の時間が終わるのだろう。

 ささやかな後悔が作り出したこの夢幻は終わりなのだ。

 ただ、声が出せたとしても、声にしたくなんてなかった。

 

 けれど、どうせ最期だ。この手がもしも動くなら、この腕がキミに届くなら。


――それでも現実は非情だ。


 まだモノクロに包まれている俺の身体、その指先がピクリと動く、たったそれだけだ。

「んんん? やるじゃんか」

 たかが指を動かすだけで褒められるなら、もっと早く褒めてほしかったものだ。

 彼女は手が届きそうな距離にいながら、最期の夢すら見させてくれない。


 ただ、やっと分かった。こんな幻覚まで見て、こんな幻想まで夢見て、やっと分かった事がある。


――俺は決して、死にたかったわけじゃない。

 幸せを望む程傲慢では無いが、少なくとも平穏な世界で、何となくの人生を生きたかった。 それで良いと思っていたのだ。


 抱くかもしれなかった夢は願う前に消えた。

 愛するかもしれない人も皆死んでいった。

 そんな世界を十年近く堪え続けて、我慢の限界だったのだ。


 俺はこの世界で生きられなかった。

 それは弱さだったのだろうか、それとも世界が俺を壊したのだろうか。

 その答えは分からなかったけれど、望むべくして死にたいだなんて何も無かったなら思わなかったんだ、きっと。


 最後の言葉を紡ぐように口が動く。モノクロの世界はまだ、終わっていない。

「そりゃ、生きたかったさ。でも、終わってくんだよ、みんな」

 その言葉に彼女は目を見開いて、驚いた素振りを見せる。そうして少しだけ優しそうな顔で俺の話を聞いていた。


「俺なりには、頑張ってきたよ。でももういいかなって、何にも出来なかった。出来たのは俺のマンションで自殺者を出さなかったくらい。それでも異世界病なんて無きゃ、こんな事はしてなかったかもしれないな……」

 自分が少し涙声になっているのも、気にしなかった。

 恥じる事なんてもう一つも無い。だけれど話を聞いてくれていた彼女は、その涙声が面白かったのかクスリと笑ってから、俺の手を強引に掴んだ。

「よーーっし、じゃあ握手だ! チャンスどころか特別だぞ?」


 瞬間、世界は完全に色づいた。


 風が吹き、手には温もりが届き、水色が目に飛び込む。

「んへへ、イイモノは見えたかい?」

 彼女は思い出とは少し違う笑顔で笑う。


 その口調とは裏腹に、幼さを残した顔。けれど言う事は妙にその見た目にそぐわない。偉そうでは無いけれど、何処か達観しているようにも思える。

 それでも、彼女は俺の目の前で楽観を絵に書いたように、高校時代の制服を纏ったまま、俺の瞳を覗いていた。


 俺の瞳は諦めに染まっていたはずなのに、そんな俺の手を握ったまま、彼女は俺と共に落ちていく。

 意識を失うとは聞いていたが、むしろ考えが巡ってしまうくらいだ。


 走馬灯は見えなかった。それでも握りしめた手は震えていた。

「ふーん……怖いんだ。自分から飛んだ癖に、怖いんだ」

「怖いさ。しかし、夢幻と心中を選ぶんだな、俺は」

 その言葉に、彼女はククッと笑う。

「いいや、選んだのは私。けれど、飛んだのはキミ。そして今から」

 一瞬、その言葉に期待した。

 まさか、この幻想の少女が俺を救うのかと、そこまで都合良い事が起こってもいいのかと。


 だが、そんなはずは無いのだ。

 風が吹いた気がしたのは、落ちているから。

 彼女がいる気がしたのは、脳が恐怖を隠そうとしたから。

 最期にはまさか、青空の色と同じ色の彼女のスカートの中の幻まで見た。


 バカバカしい最期だ。

 空を自由に飛ぶ為には、翼が無ければいけない。

 目の前に俺が死ぬに十分な硬さのコンクリートが迫る。


 彼女が言った「これから……」の言葉の続きは何だろうか。

 俺は想像の彼女に何と言わせるのか、俺の脳が産み出した癖に想像もつかない。


「これから、堕ちるよ」


――そりゃ、そうだよな。

 けれど、そう言った彼女の顔は真剣そのものだった。


 この期に及んで、俺はまだおかしくなりきれていないようだ。

 だって、飛べるなんて、救われるなんてのはあまりにも都合が良すぎる。

 それでもどうせなら、飛んだつもりで死ぬのが良かった。


 しかし彼女は最初から、俺が想像つかないような事ばかりを言う。

 だからほんの少し、彼女の存在を、彼女の言葉を、信じそうになったのだ。

「んふふー、空でも飛べると思った?」

「まさか、夢幻とじゃ、空は飛べない」

 やはり、目の前で見ても真っ黒な瞳に吸い込まれそうだなと思った。

 こんなに間近で見た覚えなんて無いのに、彼女の微笑みは嫌になる程リアルだ。

「けれど、私は空だって飛べるよ?」

 よく見ると、彼女の背に薄い羽根が見えた。

 思わず目をパチクリしている俺が面白かったのか、それともそんな姿を自慢したかったのか、相変わらず彼女は笑っている。


 ゆっくりと顔を見る暇なんて無いはずなのに、もう一度彼女の顔をじっと見てしまった。

 少しだけ、少しだけだが彼女の事を気になっていたのだ、あの頃は。


――そうして彼女は、俺に初めて死を意識させた人間だったのだ。


 異世界病が流行る少し前の話。彼女はクラスメイトのイジメにあって、屋上から飛んだ。

 それを見てしまったのが、俺だった。幾人かの人生と、そうして俺の人生を壊した日は、その年で一番暑い、夏の日だった。


――自殺するくらいなら、止められたなら良かった。

 彼女が飛んだ理由を、俺はいち早く気づいていた。その瞬間にも居合わせた。


 でも、間に合わなかった。

 

 だとしてもそんな事はもうずっと過去の話だ。

 だけれどその初めての強い後悔は、それからも積み重なっていく沢山の後悔の山の下で、今もギラギラと俺の心を蝕み続けていた。


「ほんとはさ、助けたかった。悪いな」

 打ち明けて置きたかった事を、幻影に語りかける。

 これはエゴかもしれないが、それでもあと数秒後には、俺は死ぬのだ。


 すると彼女は深い深い溜息を漏らしてから、小さく笑う。

「今じゃないでしょ! タイミング的にも時期的にも! ……でも、飛んだ私が一番悪いかなって」

 まるでリアルかのように彼女はツッコミを入れる。そうして優しい顔をしてから、手を強く握られた気がした。

「あーあ、ほんとタイミングが悪いな。でもやっぱり飛んだのはキミで、堕ちるのもキミ」

 眼の前がもう一度モノクロに染まる。ゆっくり、ゆっくりとした世界の中。


 そろそろ俺の頭蓋を割るか、四肢を砕くはずのコンクリートに、俺達は「とぷん」と、音を立てるかのように柔らかく飲み込まれた。

「夢幻の如くなり、ってかぁ。そんな事を言える程キミはまだかっこよかないよ。私は飛べる、けれど飛ばない。だからキミと一緒に堕ちるだけなりってね」

 彼女の訳が分からない言葉を最後に、俺の意識は手の温もりを感じたまま、泥の中へと溶けていくような感覚。


 落ちるまでのやり取りが本当の事だったら良いと思ったのが、この現実での俺の最後の希望だった。

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