第一章『悔いと絶望の飛び立ち』
第一話『僕らが空を飛ぶ理由』
例年よりも暑いという言葉を毎年聞くようになって久しいが、外に出る事は少ないからピンと来ない日常。
退屈と堕落を混ぜ合わせて溢れかけたコップを自分の心の中に作っていた。
毎日、夜になると襲い来る『もういいや』という呪いのような思考、
それが正しい、苦しくたって生きるのが正しいのは事実で、本当の事で、揺らぐ事の無い事だと今でも思う。
それでも、そんな考えをする人はこの数年で少数派になっていた。
だからこそ、今日こそ勇気を出す日なのだろうと、その例年よりも暑い日差しの下に立つ事を決めた。
――異世界病。
突発的に流行した、若者を中心に広まった自殺衝動。その種が、まさかファンタジーにあったなんて、誰が予想出来ただろうか。
飽和する程に、溢れかえった異世界への願望、それらが限界を迎えた。
どうかする程に、呆れ返った世界への渇望、それらが諦めを覚えた。
後に『始まりの二人』と呼ばれる事になる、自殺配信が始まりだった。
心中事件と称されたそれが世の明るみに出た次の日に、その二人とは何の関係の無い人間がもう一人、インターネットでストリーム配信をしながら死んだ。
報道の仕方が悪かったのだろうか、それとももう既にファンタジーを胸一杯に吸い込んでしまって、現実で吐き出し続ける溜息に耐えきれなくなった人達が大量にいたのかは分からない。
ともかく、始まりの二人が始まりだったのだ。
小説家を目指して何にもなれずに自殺した三十代前半男性と、二十代後半女性のカップルの遺書は、その友人と言い張る人物により心中と同時に世の中にばら撒かれた。
友人と言い張る男は有名な配信者だった、それが再生数の為か義勇心の為かは知りもしないが、そもそも心中が発覚した事もその配信からだった。
配信者は始まり二人がその遺書を書く姿から手紙の全容までを撮影し、止める気が無い事が分かる程度の言葉で説得をして、力が入っていない制止をカップルは振り切る。
二人の住む家の扉が締められたところでドアを叩いて下手くそな演技をする配信者。配信中に通報されたのだろう、パトカーのサイレンと共に配信は終わっていた。
前代未聞と呼ばれる程では無いかもしれない。けれどファンタジーやネット小説といった物に興味がない人間にすら内容が伝わる程に大きなニュースへと発展していった。
特にネットの海をボウっと泳いでいた自分には目まぐるしく情報が動き回り、錯綜していた記憶がある。
世の中への恨み辛み、病を疑う者、自分勝手な事も沢山書いていたと記憶している。
はっきり言えば、その時だけは賛否両論だった。
「そんな手間かけられんならもっと頑張れよwwww」
「その程度で死ぬなよな、彼女いる癖に」
「配信者良くやった! けど棒すぎて止める気無いのバレバレよなwww」
「まーたマスコミの偏向報道が来ちまうよ」
「勇気ある行動だと思うけどね、世の中が悪いよ」
「どうせ死ぬなら何かしてから死ねよな、面倒な奴ら」
何にせよ見ていられなかった。
ともあれ、そもそもその遺書が呪いの手紙だと言ってもいい程の絶望に満ちている内容だったということは間違いなかった。
『今度は、異世界で』
ただ、最後に書かれていたその言葉が印象的だった。
その言葉は、二人の心中直後からたった数日で流行語のようにネット上のSNSで呟かれるようになった。
退屈な人生を捨てより高みへ、ファンタジーの、ハイファンタジーの世界へと"逝こうとする"行為。
誰が言い出したかは分からないが『異世界病』と呼ばれたそれが、この小さな島国を混乱に貶めるだなんて、最初は誰も思っていなかったのだと思う。
犯罪者の所有物にグロテスクなゲームがあった時のように、大人達によってそれらは簡単に理由付けされた。
多くの人間の楽しみだったはずの『異世界転生ハイファンタジー』という読み物は、いつのまにか禁忌へ変わっていった。
そんな馬鹿げた世の中は、規制された所で治らない。
最初の二人を皮切りに、概ね若者を中心としてではあるが、異世界へと逝く人が爆発的に増えた。
その頃のマスコミはまだ丁度良い飯の種とでも思ったのか。あらゆる自殺は、粗探しにより異世界病と紐付けられた。
死んだその子の両親が、死んだその親の子が、まさにこれらが原因とでもいうように、誰かしら一つくらい持っていても不思議では無いだろう漫画、小説、ゲーム、映画のファンタジーを糾弾した。
最初はネットスラングだった『異世界病』という言葉が、心の病としてより難しい言葉で病名として認定されるまで、そう時間は要さなかった。
それくらいに急を要したのだ。
今や電車の線路際では警備員が目を光らせている。
それなのに、警備員の後ろには厚い壁が人々を圧迫するように立てられていた。
『異世界病対策』それらが行われて十数年。なりたい職業の中に線路警備員という単語が生まれ、トップ10に入り込む時代が来るなんて、誰が思っただろうか。そもそも線路警備員という職業すら、無かったのだ。
駅員では無く、線路を警備するという新しい仕事は、人の生命を守る大切な物となった。というよりも、駅員だけでは手が回らない程に、最初の頃は電車が止まる日々が続いていたのだ。
異世界病が流行って十数年経った今では、電車での人身事故なんて『線路警備員、実は異世界病の患者だった!』なんて報道が稀にあるくらい、基本的には徹底して事故は防がれていた。
いつか、毎晩のように深夜アニメが放送されていて、毎日のようにアマチュア小説家が自分のファンタジーを詰め込んだ小説を投稿していた頃があった。
ファンタジーを楽しむ読者がいて、ファンタジーを書いて小説家になろうとしていた人間が山のようにいて、こぞって異世界を書く"だけ"の日々は、終わらないと思っていた。
けれど結局、異世界ジャンルの小説を書く事は余程深く潜らなければいけないアンダーグラウンドの文化となった。
罰せられる事こそ無くても、大っぴらするとあっという間に糾弾される。この国に蔓延した異世界病は仄暗い二次的被害をもたらしていた。
自動車事故も運転手が背負う罰の量が減った。
異世界病が流行りはじめた当初はドライブレコーダーの映像が無ければ明らかに運転手の過失だろうと言われる事故すら、自殺と言われる程にてんやわんやの大騒ぎだった。
すぐにドライブレコーダーの着用が完全に義務付けられたが、未だに車道への飛び込み自殺は事故だと抗議を続ける団体すらある。
歯医者の数程では無いが、異世界病を治療する為の施設が生まれ、そして増えた。
現代病と言われたソレは、精神病の括りに入れられてはいたが、どちらかといえば宗教的だった。
既存の精神病とは別として捉えなければいけない程に、異世界病は悪い意味で発展し、蔓延していく。
――彼らは、本当に異世界があると信じているのだ。
異世界病患者は、異世界を信じている。死ねばファンタジーの世界へ転生すると信じているのだ。
来世への渇望が、現実への空虚さが、尚の事死を呼ぶ。彼らにとっての楽しみだったファンタジーも今や禁忌となっているのだから、尚更だ。
宗教と違うのは、そこに絶対的な礎も経典すらも存在しないという事だ。他にも比べられない程の格の差はあれど、異世界を夢見て死ぬ人間の理由は現実からの逃亡で、たった数年の内に作り出した紛い物の噂に飲まれてしまった人達だった。
そんなものに正当性など無いし、本当に信心を重ねる人達の尊さ等欠片も無い。
だからこそ、宗教的ではあっても、宗教とは決して呼べない歪な物、つまり病だった。
自殺には理由がある。明確な理由があって然るべきだ。
だけれど異世界病者はその部分を安易に簡略している。
何となく、死ぬ。
――だから、俺は異世界病者が嫌いだった。
絶望の縁にいたとしても、死ぬのはずっと嫌だった。
異世界なんて無いと理解しているのに、今や自殺は全てそんな者達と一緒にされる。
けれど、俺の精神はもう、限界だった。
今年の最高気温を記録した日、その日になんとなく飛ぼうと決めていた。
自分は、絶望に囚われている。だが異世界病者ではなく、異世界病者によって絶望に落とされた側の人間だ。
もう現実には友も、母も、父も、兄も妹もいない。
皆、異世界に逝ってしまった。誰も話は聞いてくれなかった。
残されたのは暮らしていくには十分な、形見のマンションが一つ。
その代わりに何度も遺書を読む事になり、自殺した誰かの姿を見た。
もう、そんなのを見るのは、限界だった。
もう、止められないのだと、思ってしまっていた。
努力はした、誰かを救えないだろうかと、必死に異世界病者を説得し続ける日々だった、だけれど、誰一人として、聞き入れてはくれなかった。
「もう、いいよな」
俺は自分の家から出て、マンションの屋上へと、ゆっくり足音を立てずに上がっていく。
マンションの屋上は絶好の自殺ポイントだ。だからこそ立入禁止ではあったが、親の形見のこの鍵束があれば、管理人の俺だけは簡単に入る事が出来る。
第一電子ロック、第二電子ロックを外す。番号が書かれた紙の、最後の番号を見て、俺はポケットに紙をクシャリと握りつぶすようにしまい込む。
まさかたかがマンションの屋上の扉に電子ロックまで付けられるとは、異世界病が流行る前は思わなかっただろう。
電子ロックの暗証番号は決して口外してはならず、管理者が変わる度に変更する規則だ。
だが、その規則を守っているかどうかを確かめる術は御上には無い。そもそもこの番号は忘れたって大して怒られやしない。むしろ人が屋上から飛ぶ可能性が減るからプラマイゼロどころかプラスだ。
「最後は俺の誕生日……そんな事するくらいなら、死ぬなよな」
両親は珍しい高齢の異世界病患者だった。
ファンタジーや異世界について何も知らなかったが故に、早い段階で心を囚われて死んだ異世界病者の第一世代と言っても良いだろう。
"意書"には「向こうで待ってるからね」と残されていた。
それはとどのつまり遺書なのだが、異世界病患者は死ぬ時に好んでこの言葉を使った。
それから家族は壊れていった。元々、壊れていたのかもしれない。
兄も妹も、両親の自殺のショックからか少しずつ異世界病の傾向が出始めていた。
俺達はきっと愛されてはいたのだろう。それでも、新しい世界の旅へ連れていく程に愛していなかったのだ。
それを好意的に捉えるとするならば、やっぱり何処かで現実を理解していて、俺達に選択肢をくれたかのかもしれない。ただそれは、やっぱり俺の都合の良い妄想なのだろうと思った。
ただ、待っていると言うのなら、いっそ連れて行けば良かったのにとも思う。
俺自身に問題が無いわけでは無かった。それでも努力で何とかなるような事で、平穏な暮らしだったはずなのだ。
だが両親が死に、家族が死に、何となく家賃収入が舞い降りる事となり、呆然としたまま、漠然と生きた。
大学には行けなかった。異世界病を救いたくて、何かしたくて、ひたすらに足掻き続けて、行く暇が無くなったというのが正しいかもしれない。
兄が消え、妹が消え、友が消え、俺だけが残った。
葬式に忙殺された日々は、十代最後の思い出としては最悪なものだった。
未だにフラッシュバックする様々な死の光景、首を括った兄、真っ赤に染まった風呂に浸かっている妹。
血に塗れて死んだ両親の笑顔。そうして自分勝手な意書とやら。
それらは俺を殺すのに、充分すぎる程の材料になった。
異世界なんてモンは存在しない。ただ、存在している現実で生きるのも限界だった。
南京錠が、一つ、二つ、三つ。ジャラジャラと音を立てて床に落ちる。ドアノブに鍵を差して回すと、扉があった。
「成程ね、二重扉。この鍵は此処用か」
ポケットから鍵束とは別の鍵を出す。ドアの鍵よりも多いこの鍵がまとめて保管されていた理由を考えた事すら無かったが、丁度今しがた鍵と鍵穴の計算が合わないと思っていた所だった。
二重扉にしなければいけない程に、厳重にしなければいけないとは、知らなかった。
書類を読むのも、億劫だった。厳重にしておいてくれと両親が業者に頼んだキリだった。その両親も、結局は飛ばずとも死んだわけだけれど。
「開け……、ゴマっと」
オープンセサミ、扉を開く為の合言葉。今となっては呪いの言葉かもしれない、もしくは最初の魔法かもしれない。
楽に死ねないこの世界では、羨ましがられる程の魔法の言葉。空を飛んで異世界に行こうとする人は多い。
初めて見たマンションの屋上は、風が強く吹き荒び、足元は薄い砂が敷かれているように酷く粉っぽかった。
「ん、灰?」
よく見るとそれは砂では無く、灰のように見えた。
この屋上はそれこそ親が死んだ十年近く前から開けられていない。埃だとは思うが、妙に踏んだ時の感触に違和感があった。
とはいえ今の状況から言えば、それが虫の群れだろうと花だろうと関係は無い。
一歩ずつ、確かに前へと進む。
じんわりとした暑さは、まるで太陽に少しだけ近づいたからかのように思える程。
それでも、汗が落ちる音も、風の音も、心臓の音の方がかき消していた。
異世界病が流行ってから、飛ぶのは楽だと言われ久しい。
一瞬で済むし、勇気さえあればすぐに手遅れ。 躊躇い傷など残らない渾身の一撃は、安易で自分勝手で、楽に死を望む人間から好まれた。
要は異世界病者は一度で死ねなければ終わりなのだ。生き残ったが最後、異世界病者の治療施設から出られないまま丁寧に寿命まで生かされる。
逆に、本当に死を望んでいる自分のような、精神が限界を迎えて死を望む人間からは、飛び降りはやっかまれるようにすらなった。
近づいて手すりを触ると少しだけひんやりとしていたが、それ以上に汚れが目立ち、不快感が勝った。数分後には無い生命が何を思っているのだろうと苦笑する。
「ああ、面倒な人間だな、俺も」
一人で呟きながら、俺は後ろを振り返る。
見えるのは開きっぱなしのドアだ。
「閉めなきゃ、集まってくるからな、アイツらは」
ため息交じりに俺は踵を返す。自殺を思いとどまったわけではない、ただこのドアが開いている事によって、俺は後の殺人鬼、もとい幾人かの異世界病者の救世主に変わる可能性がある。
『何処ぞのマンションから飛び降りが出た』
その情報はあっという間に拡散され、そこには異世界病者が押し寄せる。
その時に屋上のドアが開いているなんて事があれば、そんな話はあっという間に拡散され、異世界病者の自殺パーティーと化すのだ。
場合によっては先に駆けつけた警官すら殺される。何故なら異世界病者は死ぬつもりでその場に来ているのだから、殺しなんて何のそのというわけだ。
そんな事件が管理の甘いマンションで起こっていた事は、俺が管理者をしていなくとも知っている常識だ。
この世界をそうしたのは警察では無いだろうに、申し訳ないと思いながら警察に自殺するとのメッセージと共に電子ロックのナンバー等の情報、そうして場所を発信しながら、異世界病者では無いという最後の足掻きを付け足し、送信する。
おそらく警察が来るまでは五分と行った所だろう。
俺は丁寧にドアのロックをかけていく。
「たまやは無し、鍵屋も、閉店」
独り言が増えるのは、緊張している証拠だ。
南京錠はマンション内に転がったままだが、扉を締めると同時にピピっと電子ロックの音が聞こえた。
何度かドアノブをガチャガチャと手荒く触って見て、開かない事を確かめると、改めて手動で鍵を締める。一旦は警察も開けられないようにしなければ異世界病者が暴れ出す可能性もある。
南京錠等を持って即座に撤退してもらい、後日無理やりこじ開けてもらうのがベターだ。
風で飛ばぬよう、上着のポケットにしまっておいた鍵束をグルグルと丸めて、手すりに縛った。
「これならまぁ……気づいてくれるか。罪滅ぼしにはならんけれども」
迷惑をかける事には変わりない。申し訳無いという気持ちが無いわけではない。
だが、往々にしてそれを上回るから、どういう理由だろうが、人は飛ぶ。
「それじゃま、逝きますかぁ……」
走るのは久々で、此処はマンションの屋上だ。風に煽られただけで少しよろめく。
真っ直ぐ進もうと、多少道が外れようと、その下には死が待っている。
待ち合わせの人も、運悪く歩く通行人がいない事も知っていた。
何故ならば、この手すりの先にあるのは、マンションの広い入り口部分の屋根だからだ。死ねる高さ、だけれど絶対に人はいない場所。
俺は空へ飛び込むように、手すりを勢い良く乗り越えた。
そう思ったのは、思い込みかもしれない。
もっとダサく、よろよろと、ゆっくりと、躊躇いながら飛んだのかもしれない。
とにかく、俺は空へと飛び出した。空を見ながら逝こうと、風に抱かれるように仰向けに両手を開く。
さらば、夏よ。
さらば、日々よ。
さらば、現実よ。
目を瞑る事はしなかった。だから気づいたのだ。手すりの上に立つ少女の存在に。
――その瞬間、色付いた世界がモノクロに染まった。
「この世を、そう簡単に捨てるもんじゃあないよ」
そう言ってその少女は不敵に笑った。
モノクロの景色の中で、色の分からない長い髪が揺れている。
彩りは無いというのに、俺には彼女が天使のように見えてしまった。
「死んだらそれっきりなんだぞ。バカタレめ」
身体が動かない、けれど彼女の表情だけは上手い事見えていた。
少し寂しそうでいて、それでも何か楽しそうにしているのが不思議だった。
「異世界なんてさ、無いと思うよね。無いと思って飛んだよね? でもその絶望を、希望に変えるチャンスをあげようじゃないか。出血する前に出血大サービスってヤツ!」
言っている事が、よく分からない。俺は夢でも見ているのかもしれない。
ただ一つ思ったのは、その少女の幻想を見た自分が、悔しかった。
――俺はこの子を、知っている。
どうしようもないほどに、この俺もまた、幻想に飲み込まれている。
世界はもう、とっくにファンタジーに喰らい尽くされていたのかもしれない。
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