AM5 :00
草森ゆき
AM 5:00
1:42ごろに怖い映画を観た。そんな僕は怖がりだ。じゃあなぜ観たのかと聞かれれば配信サービスのトップに「あなたにおすすめ!」と躍り出てきたからだ。普段アメコミヒーローやアクション洋画ばかり観ているはずなのに薦められた意味はわからない。
しかし観た。そして眠れないままベッドの中にうずくまっている。怖かったというよりは不気味だった。流石に僕でも有名な、井戸とか長い髪の女とかの、怖い邦画は知っている。それを彷彿とさせた。なまじ観ていないせいで、断片的な井戸とか髪とか女とか呪いがどうとかの恐怖ワードしか知らないせいで、余計に怖がっているのだと一応冷静に考えた。
あれだ、あれ。結局想像力なんだ。もしかしてその邦画はこういう話でこういう展開になり、主人公や近場の人間は呪殺されて凄惨な最後を迎えたりするんじゃないか? 一撃で死なないような、例えば手足を少しずつ捻じ切っていくような拷問じみた殺害方法を試されるんじゃないか? むしろ主人公そのものが実は幽霊女の手先で呪いの根源だったりするんじゃないか? 怖すぎる!
このように知らない故の想像が働いて、お薦めされたホラー映画をうっかりつけたが最後、延々と恐怖にまとわりつかれて僕はベッドから動けない。
それでも時間は経つものだ。
AM4:01。引きずり寄せたスマートフォンを布団の中で開き、煌々と光るディスプレイを覗くとそう表示されていた。新着はなし、SNSを開こうとしてなんとなくやめる。目頭を揉み、ふと過ぎる怖い映画のかけらをなんとか払い、もう朝だ、とわざと声に出して宣言してみる。
僕は眠気に諦めをつけた。布団を剥いで起き上がることにして、薄ぼんやりと光る窓の外を数秒眺めてからベッドを降りた。
ド早朝に出掛けるなんてまずない。上着を羽織りアパートの部屋を出ると、それなりに冷たい風が頬を撫でていった。ポケットに突っ込んだ煙草を服越しに確かめてから、古びた階段をできるだけ静かに降りていく。
人の気配がない、と思われたがそうでもなかった。アパートの裏手にある駐輪場まで行けば、薄暗がりの中に人の頭が浮いていた。それはそれで、ちょっとビビった。でも僕の足音に気づいたらしいその人が振り返ったところで、これ以上ないくらいの安堵の息が漏れ出した。
「あれ、
その人は火のついていない煙草を口に挟んだ状態で、彼所有のバイクに跨っていた。
「おはようございます、
声を返しながらそそくさと近くに寄った。櫟野先輩はおはよー、と眠そうに言って、ポケットから出したライターで煙草に火をつけた。後ろで一つにまとめられた長髪が気怠そうにゆらりと揺れた。
先輩のバイクの隣にある自転車に勝手に座った。煙草を出すとライターが差し出されて、ちょっと気後れしつつも受け取った。
並んで煙を吐いたところで
「何やってんのおまえ。早朝バイトとかやってたっけ」
先輩は当然そう聞いてきた。
「いや、やってないですね」
「そうだよな。この時間にここで会うやつって、203号の中田のおっさんくらいだし」
「中田さんてこんな時間に仕事に行くんすか」
「うんにゃ、帰りだよ。いつも死体手前の顔色で帰ってくる」
脳裏に過ぎる中田さんは半分死体の顔で、僕はつい笑ってしまう。
「で、おまえは何してんだ?」
笑っているともう一度聞かれ、ああとかええととか誤魔化すけど、怠そうな両目に見つめられるとうっかり言った。怖い映画の話だ。つい観ちゃって、普通に眠れなくて、気分転換に出てきたのだと説明した。
先輩は目を丸くした後に、肩と髪を震わせながら笑った。早朝だから音の響きを気にしているみたいで、口に手まで当てていた。あまりのウケっぷりにちょっと傷付いた。
「先輩、笑いすぎでしょ」
「ふっ、うはは、何、どの映画?」
「タイトル忘れたんですけど、えーと、なんか……兄ちゃんの運転中に妹の首が飛んで……」
「あーわかった、あれ面白かったな」
正気かよ。思わず先輩を見ると、ふっと煙を吐きかけられた。お返しに吐き返すと、またうははと笑われた。
「野々山ぁ、今度面白いホラーのDVD貸してやるよ」
「えっ……」
「一人で観なきゃいーんだよ、彼女ちゃんとかホラー観れねえの?」
「彼女なんかいませんよ、馬鹿にしてんですか」
「あれ、前いただろ?」
「いませんけど」
先輩は数秒止まり、
「前、おまえの部屋に来てた子いるじゃん?」
多少慎重な声色で聞いてくる。僕はやっと合点がいく。
「あれはね、お姉ちゃんです。マイシスター」
「あっ、マジで? 超勘違いしてた」
「そして実家にいた頃に姉ちゃんが狂ったようにホラーを観ていたので、僕はホラーが嫌になりました」
「あー、詰みじゃん」
「詰んでませんよ、DVD貸してください」
フィルターだけになった煙草をポケットに放り込みつつ言うと、先輩はハンドルに上半身を預けながら僕を横目で見た。彼の煙草も既に灰になっている。
「別に貸すけど、また眠れなくなるんじゃね」
「それはそれです、そして一人じゃ観ませんよ」
「大人数で観るのもいいとは思うけどねえ、さっき言ってた映画と同じ監督の別作品のDVD持っててさ、ホラーっていうか俺的にはカルトだしいうほど怖くは」
「櫟野先輩」
「うん?」
「一緒に観てください」
先輩はハンドルに肘を置き、頬杖をついてじっとこちらを見つめた。いつの間にかあたりが結構明るくなっている。顔立ちの輪郭が見えやすくなった。冷たそうに見えるけどいい人だし、話すと面白いし、気だるそうな雰囲気がとても目を引く先輩だ。今更そう思う。というか思っていたけど自覚ができる。未明マジックだ。
「……まー、いいけど」
先輩は体を起こし、ぐっと伸びをする。僕はぐっとガッツポーズをした。
「約束ですよ、櫟野先輩。部屋、片付けておきます」
「うわなんかそれやだな、初めての彼女を部屋に呼ぶ童貞みてえな対応でキモい」
「ひ、ひどい」
「ひどくねーよ、ていうか俺そろそろ行くわ、バイト遅れる」
先輩は肩の上でうずくまる長い黒髪を後ろに払い、さっとヘルメットをかぶってから一度バイクを降りた。
引き摺って駐輪場の屋根の下を這い出てから、先輩は右手を僕に向けて突き出した。指が三本立っていた。
「三日後なら全部のバイト休みだから、その日におまえの部屋まで行くわ。じゃあな」
バイクのエンジンがかかり、轟音が早朝の町に響き渡った。青白い空の向こう、遠くの山の先端だけは、ほんのり桃色に染まり始めている。
片手を振り、先輩はバイクに乗って去っていった。角を曲がると姿は消えて、エンジン音だけはしばらくの間聞き取れたけど、そのうち朝に紛れて追えなくなった。
櫟野先輩が新聞配達だったかビラ投函だったかの早朝バイトをしていることは知っていたし、まあちょっと、この時間なら話せるかもと思ったことは事実だ。ぜひ仲良くなって、なぜ髪を伸ばしているのかとかどこ出身かとか趣味とか特技とか色々知りたい気持ちがでかい。
ホラーを観て超怖かったけど結果オーライ。既に恐怖も消えていて、佇む僕にも走っていく先輩にも、平等に明るい朝が来る。
AM5:00に、僕はやっと眠くなる。
AM5 :00 草森ゆき @kusakuitai
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