1日目_3

 夕はマイナーなメーカーのインスタントラーメンで手早く夕食をすますと、大浴場に湯を張った。ガス、水道、電気、それら全てが機能していることに恩恵を感じつつ、緊張をほぐそうと入浴を楽しんだ。

 腹も満ち、身もさっぱりしたせいか、幾分か気分は楽になったようだ。しかし、電気の明かりがあるとはいえ、一人で広大な洋館で夜を越すことに対する恐怖は微塵も薄れてはくれてはいなかった。

 さらに、彼には化け物が来るかもしれないという恐怖までついて回るのだ。二十三時になっていないのはわかっていても、かすかな物音でさえ動悸は激しくなる。

 二階の螺旋階段横にある廊下の窓際に陣取りながら、なんらかの気配がしたように感じると、すぐに剣を構えて身震いをする。そんなことを幾度となく繰り返しているうちに、しのいちへの時刻は刻々と迫ってきていた。

 そんな状態のせいか、二十二時になると腹が減り、気分転換もかねて菓子を頬張った。ぴりりと心地のよいワサビの辛さのするポテトチップスが気に召したようで、気が付けば二袋も開けてしまっていた。

 三十分前になると、菓子に伸ばす手を止め、身支度を整えた。と言っても、停電に備えた懐中電灯を持ち、足音を消すために靴を脱いだだけだが。

 時計を見ながら時を過ごす際の体感時間はとてつもなく遅く、夕はそれだけで疲れてきていた。

五分前となったところで、緊張はピークに達した。飲む唾は全て重たくなり、酸素は吸っても微弱にしか入ってこなくなった。

針が完全に十一を指したとき、目の前が真っ暗闇になった。停電のようだ。

息をのんで窓の外を見やると、他の三つの屋敷からも明かりが消えていた。

(ついに、来た……!)

開け放たれた窓から、夜風が流れ込む。ひんやりとした空気が、恐怖をあおった。

唇を甘噛みしつつ剣を握りしめ、窓の外の様子を体を隠しながらうかがう。心臓の音と時計の針の音がそれを邪魔してくるのを、夕はいらだたしく感じた。

見張りをつづけること三十分。何も異変はない。

他の洋館からの悲鳴にそなえて耳をすませているが、特に異変を感じる音は入ってこないでいた。

(もしかして、もう中に……?)

 そんなことを思っては辺りをうかがい、這うようにして螺旋階段の手すりにまで近寄り、下の様子をうかがった。

 しかし、何度疑おうと暗闇になれたその目には異様な物は何も映らなかった。

 だが、もう一度目を外に向けた時、洋館に近づく人影を目にした。それも一瞬のことで、すぐにこの位置からでは見えない所へと消えた。

(誰だ?)

 身を乗り出して確認しようとしたその時、扉が開く音がした。それと同時に、窓が勢いよく閉まり、明かりがついた。明かりと言っても、電気ではない。屋敷内におかれた、ろうそくに火が灯ったのだ。

 数が少ないこともあり、ろうそくの明かりは電気のそれと違い、暗闇になれた目にそれほど刺激は与えなかった。

 ほのかな明かりに灯された廊下は、一気に不気味さを醸し出した。夕は、固唾をのまざるをえなかった。

 音がする。広間の立派な絨毯を踏む音が。

 足音を立てずに螺旋階段の手すりに近寄り、恐る恐る大広間の様子をうかがうと、そこには人影があった。

それは謙次でも、翔一でも、結でもなく、見知らぬ男のものだった。顔は暗くてよくはわからないが、体つきは細い。

男はびっこを引くような足取りで、ダイニングルームの方へと歩んでいる。ドアに手をかける際、立てかけられた燭台の明かりが、男の持っている物を照らした。血のついた、日本刀だ。

夕は両手で口をふさぎ、男が大広間から去るのを待った。ほとんど音も立てずにドアをあけ、男はダイニングルームへと消えて行った。

夕は、必死に深呼吸をした。

(間違いない。あれが、鬼か)

 想像していた化け物ではなく、人間だったことに一抹の安心は覚えはしたものの、脳裏に血塗られた日本刀がへばりついてしまった。

 その恐怖から逃げるように、男とは反対の方へと向かった。

(誰の血だ、あれは……! もしかして、もうすでにだれか殺されちまったのか)

 廊下の突き当たりまで進むと、高さ一メートル五十、幅一メートルはあろうかという大きな時計の裏に腰を下ろして隠れた。しかし、すぐに立ち上がれるように準備はしてある。

今の位置は、男の進んだ一階のダイニングルームとは反対に位置する大浴場の真上になる。まさに、真逆の位置といえよう。

 ここにくるまでに時計を確認したところ、日付が変わるまで二十分を切っていた。夕はこの場所、時間なら逃げとおせると思った。もしもここまで早く来たとしても、向こうもこちらも凶器を持っており、相手は細身の男なため、

(戦ってやる)

 と、意気込んでいた。

 しかし、体は正直なもので、震えはとまらないでいた。そのためか、万一に備え、大浴場に続く階段の扉はすでに開けてある。もしも大浴場からこちらへと来た場合は、必ず大理石の床を歩かなければならないので、皮靴の音に反応して逃げられる。

 逃げる算段がうまい具合に整ったことで、多少の落ち着きを得た。そのおかげで、耳が澄んできた。

 かすかな音が、遠くでなっているのがわかる。これならば当分はここには来ないだろう。

 余裕のできた夕は、時間を確認しようと腰をあげた。そこまではよかった。時計の裏から正面に回り出る際、剣の柄を時計の金の装飾に当ててしまった。

 甲高い音が、洋館を駆け巡った。

(や、やばい!)

 思いがけぬ失態に、夕は狼狽の色を隠せずにいた。少しの間を置き、隠す気のない強い足音が聞こえた。それは、どんどんと近づいてくる。

 時計を見るが、日付変更までにはまだ十分以上も時間がある。着実に足音が近づいてくるなか、予想だにしていない事態になにをすればいいのかわからず、その場でうろたえることしかできなかった。

 だが、夕はさらに混乱することになる。なぜなら、足音がもう一つ聞こえるからだ。

(誰かが、助けに来てくれたのか?)

 そんな淡い期待を描いてみたが、あれほどまでに耳を澄ましていたにも関わらず、玄関の重たい扉が開くのを聞き逃すわけがないことは自分が一番わかっていた。

 二つの足音が、どんどんと近づいてくる。前からは絨毯をふみしめる重たい足音が、下からは大理石を蹴る軽快な足音が。

 逃げ場をなくした夕は、覚悟を決めて剣を構えた。

 きらりと、何かが光った。目の前に、あの血塗られた刀が蝋燭の明かりを受けて怪しく煌めいている。

 それを手にした男と、目があった。先ほどと違い、顔がよく見える。顔も目も鼻までも細長く、まさに狐が人間に生まれ変わったような面相をしている。

男は夕の存在を確かめると、猛然と走り寄ってきた。右足を引きずるような足の運びはお粗末なものだが、その速さは尋常ではなく、あっという間に二人の間はなくなってしまった。

 低い気合声と共に繰り出された斬撃を、構えた剣で反射的に防いだ、かのように見えた。

しかし、前に出した剣は豆腐でも切るかのように男の刀に両断され、勢いをそのままに夕の肩から腹にかけて浅く切り裂いた。

 絶叫をあげながら背中から倒れる夕に、男は容赦なく追撃を繰り出した。痛さでもがいたおかげで、運よく刀は夕の頭ではなく、鮮やかに染め抜かれた朱色の絨毯に突き刺さった。

「くそったれ!」

 怒鳴るというよりも悲鳴に近い声をあげ、半身の刃となった剣を力まかせに振り上げた。

 それを軽々と払いのけると、もう一度夕めがけ刀を突き刺した。今度はよけることは叶わず、刀は左肩を貫いた。血とともに絶叫が口から吐き出される。

 刀を引き抜かれると、先ほどとは違う痛みが全身を駆け巡り、体にしびれが走った。

(こ、殺される!)

 震える手に渾身の力を込め、なんとか剣を振るって反撃を試みた。

 先ほどよりも明らかに遅い斬撃にも関わらず、男は飛びし去ってみせた。男の頬から、うっすらと血がにじみ出た。

 それを不思議に思いつつもこの隙に体制を立て直すと、異変に気が付いた。

なんと、剣を透明の液体のような何かが包んでいるではないか。だが、それはすぐに消え去り、半身の剣だけが残った。

その時、頭にとある文字があぐらをかいた。


 傷から魔力を生産


(どういうことだ?)

首から上のない子供に職業選択を迫られた時と同じ現象に、夕はさらに困惑した。

 男は頬をなで、指先についた血を眺めるも、怒りをにじませるでもなく無表情のままゆったりと歩みよってきた。そのゆとりのある歩みが、夕を圧倒した。

 夕は荒い呼吸をそのままに不恰好に刀を構えながら後ずさりをしていたが、男の足が止まった途端、それを待っていたかのように踵を返し、大浴場に続く階段めがけて走り出した。

 男は拾い上げた夕の剣の刀身を、目線の先へ投げ飛ばした。それは薄暗い空気を切り裂き、夕の右足へと突き刺さった。

 夕は走った勢いをそのままに、前のめりに倒れこんだ。刃は深く突き刺さっており、夕は苦悶の表情のまま転げまわった。

 男は足取りを変えず、歩んでくる。

(逃げなくちゃ、逃げなくちゃ!)

 頭の中にはその言葉だけが行き交うが、体が言うことをきかない。頭が壊れそうな痛みに耐え、生きるために懸命に這った。だが、無情にも男はすぐそぼまで来ている。

 あきらめかけたその時、夕の手が何かにふれた。

 銃声が轟く。

 男の小さな唸りが聴こえる。

霞みかかる眼で見上げると、そこには夕たちと同じ制服を着こんだ、拳銃を構える女の子がいた。

夕は、この女の子に見覚えがあった。しかし、名前がでてこない。

 女の子はもう二回男に向かって引き金を引くと夕の手をすばやく掴んだ。男は銃口から放たれた透明の液体のような弾丸を、わけもなく刀ではじくと地を蹴り、刀を振りぬいた。

 だが、男が繰り出した刃は、虚空を切っただけだった。

 夕たちは文字通り、そこから姿を消した。

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