17
それに気付いたとき、脳みその一部にちいさな亀裂が入ったような感覚があった。それは、堤防が決壊する感じに似ていた。そしてその亀裂から、さまざまなイメージが、流れこんできた。
そうだ。
私はあの腕時計を、知っている。毎日のように、見ていた。
紺色の地味な制服、鳴り止まない電話、十二時になると鳴る呑気なチャイム音、化粧品のにおい、部長の笑い声。
その風景の中、隣のデスクの上に、それはいつも置いてあった。
そうだ。
どうしてそんな男物の時計をはめるのか、と私は聞いたことがある。マルイさんはあのとき、何と答えただろう。たしか、無言で文字盤のボタンを押して、光をつけたのだ。そして、得意げにこう言った。
「これね、光るのよ。暗いところで、本領を発揮するわけ」
私はハッとして後ろを振り向いた。
兄の赤い光が溶けた、歪んだ空間。その顔がかろうじて判断できるほどの距離に、マルイさんがいた。
マルイさんの口が激しく動いている。何かを叫んでいるようだ。しかしその声は、なぜか私には届かない。
「キョウコ、ダメだ、キョウコ、ダメだ、キョウコ、ダメだ、キョウコ、ダメだ、キョウコ、ダメだ、キョウコ」
兄の声は怒りよりも焦りを感じさせた。まるで人工音声のように、それは同じトーンで何度も繰り返された。
マルイさんはもがくように両手足を動かしている。しかし、こちらに近づいてはいない。
よく見ると、その身体が地面から浮いていた。
マルイさん、と私は叫んだ。しかし、その声は声にならなかった。口は動くのに、声が出ない。
マルイさん、私は繰り返した。
しかし、何度試してもそれは声にならない。
そのうちに、マルイさんに、赤い光を放つ物体が近づいていくのが見えた。その間も、兄の「ダメだ、キョウコ、ダメだ」という声はずっと聞こえていて、頭がおかしくなりそうだった。
兄は、いや、“こちら側”にいる者たちは、マルイさんの侵入を許さないだろうという確信があった。もしかしたら、マルイさんを殺すのかもしれない。
マルイさんはなぜ、ここにいるのだろうか。どうして腕時計を投げたりしたのだろうか。
意識を保つために、私は考えた。何かを考えていなければ、私は私を、失ってしまう気がした。
マルイさんはなぜ、ここにいるのだろうか。マルイさんは、どうして。
私は思わず、ブルっと震えた。
決まっている。私を、助けるためだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます