16

 視界の右側に、違和感のある色が、飛び込んできた。


 なんだあれは、と、私はその色を放っているピンポン玉くらいの丸い物体を目で追った。


 それは私の数メートル向こうに、音もなく落下した。


 青と緑の中間ほどの色を放つ丸い物体が、おそらく地面に、落ちている。


 その色は、光だった。その物体自体がその色をしているのではなく、青と緑の中間色の光を、放っているのだ。その色には、そう思わせるような人工的な感じがあった。


 私はどこかで、その色を見たことがあると思った。


 私はその物体に近づいて、しゃがみこんだ。


 手に取ろうと腕を伸ばすと、ダメだ、と兄の声が聞こえた。私は動きを止めた。顔を上げるが、兄の姿はない。


「ダメだ」


 しかしはっきりと、その声は聞こえた。頭の中に直接ひびいてくるような、不思議な聞こえ方だった。


 どうして、と私は言った。どうして、ダメなの。


「ダメだ、キョウコ。それを取ったら、戻れなくなる」


 戻れなくなる?


「そうだ、戻れなくなってしまう。それは、異世界のものだ」


 異世界? 異世界って、兄さんのいる世界のこと?


 私が聞くと、兄はしばらくのあいだ黙っていたが、やがて、言った。


「違う、お前のいた世界だ」


 え、どういうこと、だってここは、まだ……


「お前はもう、の存在だ」


 その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。しかし次の瞬間、それまで私をおおっていた、あたたかい湯船に浸かっているような心地よさが、すっと消えた。貧血を起こしたように、冷たい悪寒が背筋をはしった。


 こちら側とは、どういうことだろう。ここはもう、兄のいる世界なのだろうか。


 それまでの快感が反転したように、私は急激な不安に襲われた。


 私はパニックになりかけていた。目をはげしく動かして、何かを探した。何を探しているのかは分からなかった。やがて私の視線は地面に注がれ、そこで、あの光る物体をふたたび見ることになった。


「ダメだ、それを見るな」


 兄の声に怒りがこもった。しかし私はなぜか、兄に従ってはいけないと思った。兄の言うとおりにすることが、ひどく恐ろしいことのように思えたのだ。


 一方で、兄の言いつけに背くこともまた、同じくらい恐ろしくて、私はじっと黙って、足元の緑とも青とも言えない光を、見つめた。


 やがてその光は音もなく消えてしまった。その、光の消える瞬間に、私はその物体の全形を見た。


 腕時計だ。


 ボタンを押すと文字盤が光るタイプの、腕時計。


 そうだ。


 そして私は、その腕時計に、そして、光る文字盤に、覚えがあった。

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