15

 怒るだろうな、とふと考えて、強烈な自己嫌悪とともに、怒るマルイさんの姿を想像して、私は思わず微笑んだ。


 私は足を踏み出した。兄の足元に開いた、先の見えないトンネルに向かって。


 彼は、いや、兄は、迷いなく近づく私のことを、神妙な面持ちで待っている。


 兄をつつむ赤い光は、オイルが燃えているようにツヤツヤと光っていた。それは炎のように見えた。その炎の中で、兄の、人間としての輪郭はみるみるうちに薄く、曖昧になっていき、やがて火の玉のようになってしまった。


 目も鼻も口もなくなって、それなのに、私は兄が私を見ていることがよく分かった。あっち側に行けば、私もああいう姿になるのだろうか。


 私は、十五年ものあいだ、必死に忘れようとしてきたトンネルの先にある世界を、想った。


 その世界よりも魅力的なものを全力で探した兄は、結局ひとりで行ってしまった。だから私は、そう、この今生きている世界に残るために、徹底的に興味関心を排除し、とにかく平凡な毎日を過ごしてきた。


 結果的に、それは成功しなかった。


 私の前に兄が現れた時点で、私の抵抗は、意味をなさなくなったのだ。


 私は兄と行くだろう。このトンネルの向こうに、どんな世界が広がっていてもかまわない。人間の姿形を失うのだとしても、生きた記憶そのものが消えるのだとしても。


 これは私が持つ、なのだ。


 この人生でひとつだけの、情熱なのだ。


 自分のこころに従うということが、こんなにも心地いいとは知らなかった。私の足は熱を帯びたように暖かくなった。まるで、床暖房の上を素足で歩いているようだ。


 その熱はやがて、膝を伝って腰に至り、腹、胸と全身にいきわたり始めた。


 それは喜びだった。その熱は、喜びだった。


 私は、ずっと欲しかったオモチャを買ってもらった子どものように、幸せな支配感を味わいながら、歩き続けた。


 ふと気づけば、兄の中にいた。


 視界は変わらず暗かったが、兄のまとう赤い光のなかに、私はいた。


 トンネルの入口を過ぎた記憶はなかった。いや、あるいは私はまだ、その入口にも到達していないのかもしれない。


 しかし、そんなことはもう、どうでもいいのだ。


 私は気が遠くなったが、それは恐怖や怯えのためではなく、圧倒的な快感によってだった。だから私は、自分の意識が遠のくその感覚を、身体も、こころも全開にして、受け入れた。


 その時だった。


 ヒュン、という音がして、私は閉じかけたまぶたを開いた。


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