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でも、もう手遅れだったんだ。俺は、行かなければならなかった。
「私も行きたかったわ。私を連れて行って欲しかった」
なぜ?
「なぜ、ですって? 分かるでしょう、兄さんと同じ理由よ」
そして私は言った。
「私は、私たちは、あのトンネルの先にあるものに、惹かれてしまったのよ」
夕方近くなって、私たちはやっと立ち上がり、浜に降りることにした。
心は穏やかだった。恐怖心はなかった。私は波の音を懐かしく思った。もう、海を避ける必要がないのだと思って、安心したほどだった。
私が十五年も海から遠ざかっていたのは、兄を飲み込んだそれを恐れたからではない。
自分の欲求を抑えるためだった。
兄を追ってあのトンネルを行こうとするだろう私自身を、引き止めるためだったのだ。
あの日見たトンネル、そして、そこを駆けていく赤い光をまとった人間は、発狂するほどに魅力的だった。
理由は分からないが、私は、私たちは、あの生き物を追っていきたい、追っていった先にある世界を見たいという、恐ろしいほどの欲求に襲われた。
私はその強烈さにむしろ怯えてしまって、なんとか兄を引き止めることができたのだ。
旅行から戻った兄が、ギターやスポーツに没頭したのは、その欲求から逃れるためだった。あのトンネルの先にある世界よりも魅力的なものを見つけなければ、自分はあのトンネルを求めるだろうと分かっていたからだ。
そして兄は、事実そうした。
あのときと同じ浜で、同じトンネルを探し当て、行ってしまった。
どうして戻ってきたの?
そう聞こうとして、やめた。私は兄の後ろ五メートルほどを、黙ってついていった。
浜には誰も居なかった。数時間前に降りていった家族も、見当たらなかった。
それ以前に、視界が変だった。
空が急に暗くなって、海の青さが消え、それなのに前を行く兄の姿ははっきりと見えるのだ。私は既に、別の世界に足を踏み入れかけているのかもしれない。
奇妙な風景だった。すべては暗く、そして同時に、発光しているようでもあった。黒い光を照射されているようだった。
その中心で、兄は立ち止まり、私を振り返った。あの日と同じだ。しかし、ハッキリとちがうこともある。
兄は、赤い光をまとっていた。
トンネルの中で見た人間と同じ、赤い光。
それはゆらゆらと、私を誘った。兄は何も言わずに、ただ待っていた。その足元に、他の部分よりもさらに黒いところがあった。
トンネルの入口だ。
私は足を踏み出しかけて、止めた。ふと、私のいなくなった後の世界のことを考えた。
父親も母親も、私が消えても大丈夫だろう。父親はどこでなにをしているのかもわからないし、母親にしても、電話だけのつきあいだ。
私は兄のように特徴的な人間ではない。
どこにでもいるOLが、ひとり行方不明になるだけだ。
ニュースになることもなくて、もしかしたら父も母も、私の失踪を知らないままずっと過ごしていくのかもしれない。
しかし。
しかし、私がいなくなったとき、マルイさんだけが、他の人とは違うことを考える。
小さな痛みを感じた。
私はここにきて気付いた。
兄はあのとき、私を連れて行きたくてメールを送ったわけではなかったのかもしれない。
兄は、元の世界に自分の軌跡を、生きた軌跡を、少しでも残そうとしたのではないか。
完全に消えてしまう前に、ただ一人でいいから、この世界に存在した証を、残そうとしたのではないか。
そして私は。
私は、その対象としてマルイさんを選んだ。
マルイさんならきっと、私を覚えていてくれる。
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