13
先日のカフェのそばに車を停めて待っていると、大きなボストンバッグを抱えた彼がいつの間にかそばにいて、助手席にすべりこんできた。
キョウコ、晴れてよかったな。
彼はそう言って、フロントガラス越しに青空を見上げる。雨がふらなくてよかった、なあ、キョウコ。
私はええ、と同意しながら私は車を発進させる。もう、覚悟は決まっているのだ。
彼とトンネルについての話をしたことはない。赤い光や、そのなかに見えたあの人間、そして、兄のことも、なにひとつ話してはいない。
話す必要などないのだ。私が話さずとも、彼はそのすべてを知っているだろう。
なぜなら、彼は兄なのだから。
車で三時間弱、私たちは旅館に到着した。
私はその、あまりの懐かしさに、気が遠くなる思いがした。当時は真新しく見えた旅館は、ひどく小さく、古ぼけて見えた。しかし、間違いなくそれは、あの日私たちが宿泊した旅館だった。
いたみ始めた古い建物には似合わない、二十代前半の女性がにこやかに出迎えてくれて、私たちは一階の部屋に通された。
正面の窓の向こうに、あの日と同じ、海が広がっていた。
私は思わず息を呑んだ。
そして、キラキラと光るその穏やかな海面を、ずっと見つめていた。
恐怖はなかった。
十五年、ひたすら避けてきた海を目の前にして、私は奇妙に穏やかな気持ちだった。
私と彼は、何をするでもなく、ただボンヤリと海を見続けた。
宿泊客が、笑い合いながら浜に降りていくのが見えた。
ベッドに並んで腰掛けた彼は、ただ私の肩を抱き、黙っていた。壁いっぱいに開けた大きな窓は、そこにないも同然だった。
私は、視界いっぱいにひろがる海を見ながら、考えていた。
あの日、兄はひとりでここに来て、そして恐らく、あのトンネルに入った。向こうの世界に行く前に、私にメールを寄越したのはなぜだろう。
私のことが、心配だった?
確かに、それもあるだろう。しかし私は、あのメールにただよう違和感を拭えない。
兄はどこかで、私を試しているような印象を受ける。「あのときのこと覚えているか」「あのときお前はどこまで見たのかな」といった文面は、なにか不自然だ。
兄はもしかしたら、私にはあのトンネルが、赤い光が、奇妙な人間が、見えなかったと思ったのかもしれない。
私は小学生だったし、そもそも、悪夢のような出来事だ。そのときは現実だと思っていても、時間が経つにつれて、夢の一つだと記憶から消えていったと思ったのかもしれない。
だから兄は、私があの出来事をどうとらえているかを、確かめるようなことを書いた。ストレートに書くわけにはいかないと思ったのだろう。
メールの後半には、そんな兄の複雑な心境があらわれている。今の私にはよく分かる。
そう、そんな、記憶すら曖昧だと思った妹に、ギリギリになってまでメールを送らなければならなかった理由も。
兄は、私を、連れていきたかったのだ。
最後の瞬間まで、兄はそう考えていた。怖かったのかもしれない。あの浜で、赤い光を前に、どうにか私と一緒に行けないかと、考えていた。
「でも、私があのことを覚えてないかもしれないと思って、言えなかった」
私は独り言のように呟いた。
カモメがたくさん飛んでいる。窓は閉まっていたが、その甲高い鳴き声がすぐそばで聞こえるようだった。
彼はそうだ、と言った。
「私を連れていきたかったんでしょう、そうなんでしょう」
彼は黙っていた。
「私は覚えていたわ。忘れるはずがないじゃない」
私が嘆くように言うと、彼はため息をついた。
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