12
私はそして、旅行から帰った兄がとつぜん行動的になったこと、いろいろなことを始めては、そしてスッパリと捨てていったことを説明した。
マルイさんは、いよいよわけがわからないという顔をしたが、何も言わなかった。今日は話を聞きに来たのだからと、ガマンしているようだ。
それが手に取るように分かって、私はまた、マルイさんのことが好きだと思う。そして、そう恥ずかしげもなく思えるのは、マルイさんが私のことを好きでいてくれているという実感があるからだ。
だから、私がいましているのは、残酷なことなのかもしれない。
「兄はそういう生活を何年かつづけたあと、実家を出て一人暮らしをはじめました。兄が消えたのは、それから半年後のことです」
私が言い終わると、やっとつながったわね、とマルイさんはため息をついた。そして、これまでの話を思い出すように天井を見上げて、つまり、と話し始めた。
「あんたは、つまり、お兄さんがいなくなった原因は、砂浜のトンネルで見た、その気味悪いなにかにあるって、思ってるわけね」
私はビールを流し込む。たくさん話したせいで、喉が痛い。
「ええ、そのとおりです」
でも、喉が痛いという感覚を、私はもう一度感じることができるのだろうか。
「でも、なんで? その変な赤い人間に会ったとして、なんでお兄さんはとつぜんギターなんて始めたのよ。読書とか空手とかさ。そしてなにより、なんで、行方不明にならなければならないのよ」
マルイさんが疑問に思うのも無理はなかった。
しかし、それはマルイさんが、あの赤い人を見ていないから言えることだ。
あれを見た人間、つまり私には、兄がとつぜん変わった理由を、理解できる。
誰かに説明することはできないだろう。
しかし、私は兄が、必死に、あの赤い人のことを忘れようとしていたのだと知っている。
ギターも、読書も、筋トレも、空手も、そこに必然性はなにもなかった。ギターである必要はなかった。あるいは他のなんでもよかった。
あの赤い人より魅力的なら、なんでも。
「ね、私はそこがわからないのよ。そして、あんたが泣くほどつらかったのは、そのへんにこそ関係する部分なんじゃないの? ね、あんたなんで泣いてたのよ」
時間は既に、夜中の二時近くになっていた。マルイさんが眠気に襲われていることは明らかだった。あるいは、飲み過ぎたのかもしれない。毛玉のできたパジャマを着て、目をしょぼしょぼとさせている先輩を、愛おしく思った。
「なんでだろう。よくわからないな。でも、聞いてもらえてスッキリしました」
私はわざと、曖昧な返事をした。
マルイさんはやがて我慢できないといった様子で、私が床に敷いていたマットレスの上に横になってしまった。とにかく過去のことはもういいんだと言って、旅行がどうとか、プロポーズがどうとか、そういうことをブツブツ言っていたが、すぐに目を閉じて、静かになってしまった。
私は寝息を立てるマルイさんを、しばらく見つめていた。
マルイさんの持ってきたビールの山は、ほとんど空になってしまっていた。私も酔っていたのだろう、なんだか感傷的になってしまって、マルイさんの寝顔を見ながら、ひとり声を殺して泣いた。
どうして私は、両親にすら黙っていたことを、マルイさんに話してしまったのだろう。どうしてはじめに決めたとおり、誰にも告げずに行こうとしなかったのだろう。
マルイさんは、警察に話すだろうか。
しかし、兄のときと同じだ。
探しても無駄なのだ。
次の日の朝、二日酔いの私とマルイさんは、遅刻ギリギリで出社し、昼ごはんには一緒にソバを食べに行った。
「二日酔いでソバに逃げるようになったら、もう歳よ」とマルイさんに言われたが、ソバを食べたいと言ったのはマルイさんでしょう、と反撃した。
マルイさんは昨晩のことには触れず、式をするなら早く予約をとったほうがいいとか、引き出物は量よりも質だとか、そういうことを話した。
マルイさんとの最後の食事が、そんな風にいつも通りであったことを、私は嬉しく思った。
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