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 記憶にある中で、私たちが家族水入らずで行った、唯一の旅行ではなかったかと思う。


 あの日、父と母と私と兄の四人は、旅館の目の前にあるプライベートビーチにいた。


 旅館の女将は、自信ありげにプライベートビーチと言ったのだが、実際に行ってみると、そこまでのものではなかった。まわりに何もないから、結果的に貸切にできているだけの、どこにでもある砂浜だった。


 それでも父や母は、うれしそうだった。旅行など、めったにあるものではなかったからだ。


 午前十一時くらいだったと思う。


 私たちはそのあと、旅館の前に広がる庭で、バーベキューをすることになっていた。既にその用意はされていて、大皿に盛られた肉や魚や野菜を見て、私もすこし、ワクワクしたのを覚えている。


 火が入るまでの一時間程度をビーチで過ごしたらどうか、という女将の勧めを受けて、私たちはそこにいたのだ。


 空は晴れており、日光が海面に反射して、キラキラと光っていた。


 海には船一艘浮かんでいなくて、波も穏やかだった。カモメかウミネコか、鳥が飛んでいた。父と母は並んで立ち、おれたちもビーチサンダル持って来ればよかったなあなどと、楽しそうに話していた。


 かすかに、波の音がした。こんなにも近くにいるのに、波の音はとても静かで、私は不思議な感じがした。


 とにかく、それは穏やかな時間だった。幸せな時間だった。当時小学校高学年だった私も、幼心に、こんな時間がずっと続けばいいのに、と思ったことを覚えている。


 満足そうに海を眺めている父母を置いて、私と兄は、砂浜をぶらぶらと散歩しはじめた。どちらかが誘ったわけではなく、歩いて行く兄の後ろを、私が勝手について行ったのだ。


 両親から離れると、見慣れない景色の中にいる兄の姿に、奇妙な非現実感をおぼえた。百メートルほど向こうまで続いている砂浜と、その向こうにある突き出た堤防のようなもの、その上で動いている釣り人たち。その中で、兄は歩いていた。


 やがて兄は立ち止まり、私の方を向いて、地面を指さした。


「穴だ。穴がある」

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