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じゃあ明日、と彼と別れたあと、私はなにかとてもさみしくなって、それでも、どうしていいのかわからなくて、ひとり家に戻った。
留守番電話が残っていて、再生すると、母親の、かすれた声が聞こえてきた。
「キョウコ、かあさん、足がいたくてねえ。シップを貼っても、治らないのよ。友達はもう治らないっていうよ、その友達もいたいんだって。ねえ、キョウコ、あんた、ねえ、仕事ばかりして、あんた……」
母はいま、ちいさな借家に、一人で住んでいる。
父親と別れてから、酒を飲むようになり、ときどきこうして、酔って電話をかけてくる。
私が一人暮らしの家に固定電話を置いているのは、母親のためだ。
私は携帯電話の番号を、母親におしえていない。仕事中にかけられても困るし、私と母親の会話を、誰かに聞かれるのも嫌だったからだ。
その固定電話にしても、かけてくるのは母親だけだとわかっているので、疲れている夜などは、着信音が鳴っても無視してしまうこともある。
私は布団にもぐって、その呼び出し音を聞かまいとする。孤独な母親からの連絡を無視する、という行為は、私をひどく痛めつける。私はそして、母親を憎みそうになってしまう。まるで、その痛みを、母親から与えられたような気持ちになって。
母親はもう、ダメなのだと思う。
今日はまだマシだった。何を言っているのか、分かるのだから。ひどいときには、ほとんど悲鳴に近いような、判別のできない言葉を一方的に吹き込んでいく。心療内科に通っているといっていたが、いまはどうなのだろうか。正直に言って、医療が進んでも、母親はもとには戻らないのだと思う。
私たちの家族は、兄の失踪で、壊れてしまった。
母は精神をやられ、いきなり泣いたり叫びだしたりするようになった。などか自殺未遂も起こした。
そんな母を支えようとがんばっていた父も、疲れたのだろう、若いホステスとつきあうようになり、やがて家に戻らなくなった。そんな状態だったから、私は勉強どころではなくなって、受験には失敗した。
私は実家を出ることを決め、小さなアパートを借りた。
アルバイトをしながら予備校に通い、一浪して、当初の志望校よりランクの低い大学に入学した。ホステスと暮らす父親は、その入学金のいくらかを払ってくれた。
やがて両親の離婚が成立し、母親は私のアパートに電話をかけてくるようになった。父親はすぐにホステスに捨てられ、借金を背負ったらしい。父親とはもう十年以上連絡をとっていない。
留守番電話に吹き込まれた母親の声を聞いて、いよいよさみしさが募った。不安が、体中を覆っていくようだった。
あの日曜の朝、ひとり公民館に向かっている自分を思い出した。
誰ひとり、頼れる人はいないのだ。
彼はいま、どこで何をしているのだろうか。数日後、私は彼と、ほんとうに海に行くのだろうか。
マルイさんから連絡があったのは、そんなときだった。
マルイさんのいつもどおりの声が、私の結界をあっさりと通り抜けた。
「ねえ、あんた何してた? ちょっと、あんた、どうしたの、泣いてるの?」
私は子どもみたいに泣いた。下手くそな泣き方だと自分でも思った。マルイさんの、今すぐ行くから待ってな、という言葉に、ますます涙は止まらなくなった。
マルイさんは、「今すぐ行くけど、でも、酒を買うためにコンビニには寄るから、わかったね」と言って電話を切った。
私は泣きながら笑ってしまった。
そして私は、自分はマルイさんに、両親にすら明かさなかった兄の話をするだろうと思った。
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