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 そういう生活もしかし、長くは続かなかった。兄は再びとつぜんに、本を読まなくなった。


 兄が次に始めたのは、ジョギングと筋トレだ。


 早朝から走りに出た。夜は自分の部屋で、フローリングに汗の水たまりができるほど熱心に、筋トレをした。兄の身体は締まり、美しい筋肉がついた。


 やがて兄は、空手の道場に通いたいといって、月謝を払ってくれないかと父親に頼んだ。父親はそれを承諾し、兄は道着を持って、道場に通うようになった。手の甲や鎖骨のあたりに、アザを作って帰ってくることもよくあった。


 その後、昇級審査を受けて、白帯からオレンジ帯になったが、そこで兄の関心は途絶えた。


 その後も兄の興味関心は、つぎつぎと対象を変えていった。


 短いものでは数日、長くても数ヶ月という期間で、兄はある日とつぜん別人になってしまったかのように、それまで熱中していたものを捨てた。捨てると同時に新しい関心ごとを得て、次の瞬間には、もう没頭している。


 「単なる飽き性だろう」という人もいたが、否定的な意見は稀だった。ほとんどの人は、兄を“すごい人”だと考えるようになった。


 兄の行動が好意的に受け入れられた理由は、ふたつある。


 ひとつは、兄がすぐれた容姿を持っていたことだ。


 兄は背が高く、端正な顔立ちをしていた。ギターを持つ姿は、プロのミュージシャンのようだったし、空手の「型」も、長い手足を力強く使っていて、素人目にも美しかった。


 もうひとつは、兄の態度だ。


 ギターも、筋トレも、読書も、兄はとにかく真剣に取り組んだ。


 朝から晩まで、いや、ときには睡眠時間を削ってまで、兄はそれらに向き合った。もともとの器用さもてつだって、兄はみるみる上達していった。数日から数ヶ月という、何かを極めるには短すぎる時間の中で、兄はある一定の成果をあげていったのだ。


 兄の通う中学と、私の通う小学校が、道を挟んだだけの近所だったこともあり、兄は小学校でも有名人だった。


 クラスには、本気で兄を好きになる女子もいた。お兄ちゃんに、とラブレターを渡されたこともある。また、男子たちも、ナカジマの兄貴はカッコイイと、その服装や髪型を真似したり、空手の道場まで行く子すらいた。


 兄がつぎに何を始めるのか、周囲の人はむしろ期待するようになった。


 父や母もまた、そういう兄を、自慢に思っているようだった。もともと、おとなしくて控えめな性格のふたりだ。いろいろなものにどんどん挑戦し、そして上達していく兄を、眩しく見ていたに違いない。


 ある日とつぜん生活スタイルを変えること、まるで別人になるかのように、昨日までとはまったく違う生き方を始めること。そのこと自体への違和感を、誰も感じなくなっていた。


 兄の失踪がマスコミで取り上げられたとき、「自殺ではないか」という噂がたった。その理由のひとつが、まさにその、違和感、だった。


 兄を知らない世間の人々は、その違和感をあたり前に感じ、そしてためらいなく口にした。そんなおかしな生活を送っていた中学生は、やはり頭がおかしかったに違いない。一般人に理解できない理由で、身投げしても不思議はないだろう。世間はそう判断し、テレビもそういうスタンスでニュースを構成した。


 兄に憧れ、好意を寄せていた人たちは、そういった世論によって、兄への想いを否定された。世の中全体から見れば、兄の生活や行動は異常だったのだと、今更ながらに気付かされたのだ。


 そういった気まずさもてつだって、人々は急激に、兄のことを忘れていった。


 他人など、その程度のものだ。


 そしてその方が、私にとっても都合がよかった。


 私には最初から、兄が異常であることを分かっていた。そしてその異常が、何によってもたらされたものなのかも。


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