第56話 ~愛~


 ……やめて

 アーシャの全身に震えが走る。

「駄目!!」


 駆け寄ると、マリウスの手を叩きカップを落とす。


 ガシャン!!


 カップは音を立てて割れ、床に茶色い液体が飛び散った。


「飲んではいけません……飲んでは……」

 マリウスの足元にズルズルと泣き崩れる。

「……アーシャ」

 マリウスはしゃがみ、細い肩を抱き寄せた。


「アーシャ・ミラー。どういうことだ。何故神の裁きを止めた」

 厳しい口調で問い質すジョシュア皇子。アーシャは溢れる涙を拭いもせずに答えた。

「申し訳ありません……私は神と陛下の前で偽りを申しました。私は、あのカップの中身が氷結花であることを知っています。氷結草ではなく、わざと間違えて氷結花を選んだからです」

「……本当は薬草を見分けられるというのか」

「はい」


「……立て。薬草の前に来い」

 アーシャはふらりと立ち上がると、再び二つの籠の前に立つ。

「触らずに見分けろ」

「……左が氷結花、右が氷結草です」

「理由は?」

「どちらも乾燥させると緑になりますが、氷結花の方は先端がやや割れ、絡み合います。縮むと非常に分かりづらいので、経験が必要です」

「他に違いはあるか?」

「煎じた時に気付きます」


 アーシャは割れたカップへ近付くと、破片を持ち上げ残った液体を揺らす。

「氷結草を煎じた汁はサラサラしていますが、氷結花は微妙に粘度があります。また、香りはどちらも甘いのですが、氷結花は口に含むと非常に苦味があるのです。

その為医師は患者に氷結草を使用する際、匙で粘度を確かめ、更にひと舐めして安全性を最終確認します」


「マリウス・ハミルトン医師。氷結草に関する彼女の知識は、貴方の知識と相違ないか?」

「はい。相違ありません。……全て私が教えた知識です。通常は見分けるのに何年も要する難しい薬草ですが、彼女は一度教えただけで、完璧に見分けることが出来ました」




『……こちらが氷結花ですね』

『正解だ。乾燥した物の見分け方はもう完璧だな。……明日使用するから、その時に煎じた時の違いを教えよう』

『入院中の末期癌の子供に使用するのですね』

『……ああ』

『辛いですね。この薬草を使わねばならない時は』

『そうだな……だが俺は、氷結花は患者やその家族にとって、非常に尊い薬草だと思っている。悪魔の花などと言われるが……医師の心持ちで、尊厳の花に変わるのではないかと』

『尊厳の花……』

『ああ。患者が苦しまず穏やかな顔で最期を迎えることで、遺された家族のその後が大きく変わる。患者自身も安心して、神の元へ昇れるのではないだろうか』


『尊厳……人間の尊厳。医師にとって、決して忘れてはならない言葉ですね』




 アーシャの目から落ちた涙が、氷結花の茶色い液体に溶けていく。

 マリウスの目からもそれは溢れ、シャツに付いた茶色の染みを滲ませた。


「マリウス・ハミルトン。何故貴方はカップの中身が氷結花と知りながら飲もうとした」

「彼女を信頼し……愛しているからです。彼女は絶対に私に氷結花を飲ませたりしないと、そう確信していました」


「アーシャ・ミラー。何故マリウス・ハミルトンが氷結花を服すのを止めた。あのまま飲んでいれば彼は有罪となり、貴女は助かったものを」

「……お慕いしているからです。先生を、お慕いしているからです。それに、氷結花は患者の最期を守る尊厳の花です。人を苦しめる為になど、決して使用してはなりません」



 ミュゼットをはじめ、多くのものが泣いていた。

 何故この様に高潔な二人が裁かれなければならないのか。……神など本当にいるのだろうか。



 薬草や割れたカップが素早く片付けられると、皇子は皇帝に向かい書面を読み上げる。


「未成年の為本日は此処にはおりませんが、もう一人、娼館で働いていたニーナという少女が証人におります。マリウス・ハミルトンに孤児院で引き取ると騙され、そのまま無理やり娼館で客を取らされたとの証言内容です。調書をご確認下さい」


 皇帝はさっと調書に目を通すと、皇子に返した。


「先に調査書をご確認頂いた通り、アーシャ・ミラーのサレジア国での犯罪歴は事実です。ですが主犯はサレジア国皇妃であり、背後には複雑な事情が絡んでいた模様です。また彼女は、この事件の自白者で父親であるロビー・ミラーより、幼少期に酷い虐待を受けて育ちました。ミュゼット皇女の証言によると、ヘイル国で再会してからも彼女を脅し金を強請ゆすっていたそうです。そして……」


 皇子は後ろを振り返り見回す。


「今日、ここに集まったのはヘイル国で彼女と関わった者、また治療を受けた者達です。金の為に罪を犯したという彼女の自白とは異なり、皆口を揃えて彼女は欲のない人間だったと申しております。また、先程の薬草の知識でもお分かりになる様に、彼女の医術に対する姿勢は生半可なものではないと。皆、彼女を信じ、彼女を救いたいと集まった者ばかりです」


 私を信じて……こんな私を信じて、助けようと……

 涙に霞む目で後ろを見るアーシャに、ミュゼットは力強く頷いた。


「私自身も、アーシャ・ミラー医師に恩を受けた一人です。ローズ妃の生前は勿論、亡くなった後も、混乱し悲しむ乳母や使用人の為にどれだけ尽くしてくれたか。カトリーヌ皇女のこともまめに気に掛け、体調が優れない中検診にも欠かさず来てくれました」


 ジョシュア殿下……

 アーシャは大きく震え出し、もはや立っているのもやっとな状態だ。


「……私は今、こうして調書を元に裁きを進めておりますが、本来は此処に立つべきではありません。何故なら客観的かつ公平に事件に向かえない可能性があるからです」


 皇子はミュゼットや夫人達が集まる後方を指差す。


「私も本来はあちら側の人間です。アーシャ・ミラー医師と、そしてマリウス・ハミルトン医師の無実を信じ、そして救いたいと思っております」



「……本当に、公平ではないな」



 今までずっと沈黙を貫いていた皇帝が口を開いた。


「公平ではない。裁きに私情を挟むなど……実に愚かである。お前は皇子失格だ」


 線の細いその身体のどこから出るのか不思議な程、低く威厳のある声。皇子をはじめ、皆は下を向き、緊張しながら次の言葉を待つ。


「お前だけには任せておけない。私も別の証言を入手した」

 皇帝が手を挙げると、兵が皇子に調査書を手渡した。

「読んでみろ」

 恐る恐る目を通した皇子の顔が、はっと明るくなる。

「これは……」


「私の母同然の乳母、バーナム伯爵家サンドラ嬢の証言だ。高齢の為本日此処に来ることは出来なかったが、アーシャ・ミラー医師を案じ救いたいと申していた。

そこにある通り、医師は嫌な顔一つせず遥々遠方まで赴き、孤独な老人へ家族の様に向き合った。また、帰る直前までサンドラ嬢の身体を労り手技を施したともある。毎回僅かな謝礼を受け取るのみで、他に何の要求もなかったと」


 サンドラ様……孫の様に、そして親友の様に接して下さったサンドラ様……

 とうとうアーシャは立っていられなくなり、その場に崩れた。


 皇帝は話を続ける。


「私は、ミュゼット皇女がアーシャ・ミラー医師に治療を依頼し、宮殿に招いた時から彼女の素性を調べていた」


 これにはミュゼットが驚き、目を丸くする。


「……娘の治療を任せるのだ。当然であろう。追放された犯罪者であることはすぐに分かったが、皇女が信頼を寄せていることと、高い医術を信じ様子を見ていた。結果、皇女は視力を取り戻した。高額な謝礼を渡したにも関わらず、アーシャ・ミラー医師はそのほとんどを世話になった神殿に送金したとの調べもついている。……間違いないな?」


 皇帝の視線に、神官は強く頷きながら言う。

「はい。間違いございません。神殿に居た時から、彼女は治療費の全てを神殿の為にと私に預けてくれました」



 お父様が……私を見て下さっていた。

 第8皇女の私なんてどうでもいい……そう思われているとばかり……


 涙を流すミュゼットを、優しく見つめる皇帝。それは紛れもない父親の顔だった。


「マリエンヌ病院に行ってからもずっと見守っていた。宮殿に籠っていた時とは比べ物にならぬ程生き生きと……アーシャ・ミラー医師のお陰で、お前は新たな人生を手にしたのだな」



「……陛下」

 ジョシュア皇子は玉座の前にさっと跪く。

「私は確かに皇子失格です。いかようにも処分を受けます。ただ……この事件を再調査する権限だけは私に下さい。ロビー・ミラーの悪事を隠蔽し、マリウス・ハミルトン医師を陥れようとした人物が必ず他におります」


 ランドルフ様……

 アーシャは首を振る。


「認めよう。再調査の権限を──」



「その必要はございません」



 低く冷静な声が玉座の間に響く。

 そちらを見れば、正装をしたランドルフが背筋を伸ばし立っていた。

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