第54話 ~重~


 そこは時が止まった様な部屋。

 ドレッサーの上の小瓶も、ガラス棚の飾りも、本棚の本も何もかもそのままに。

 確かに此処で誰かが暮らしていた痕跡はあるのに、冷たい空気が充満するだけで、人の温もりは全く感じない。


 主が居なくなってから23年もの年月を経た、マリウスの母、マリエの部屋。



 後を追って来たジョシュア皇子は、ランドルフの背後から、女性の部屋と思わしきその室内を見回す。

 これがランドルフに遺されたもの? この部屋に一体何が……



 ふとテーブルに目をやると、そこだけがぼんやりと光って見える。魔力だろうか……

 近付くと、ランドルフ宛の一通の手紙が置かれていた。


 ランドルフは震える手で封を開け、懐かしい父の文字に目を落とす。



『今、お前は幾つになっているのだろうか。また、どんな立場にあるのだろうか。


 確かなことは一つ。この手紙を開けたということは、お前がまだマリウスを憎んでいることだ。


 きっとお前は、私のことも憎んでいるだろう。お前を愛してやれなかった、この愚かな父のことを。


 何故この手紙をマリエの部屋に置いたか。それはこの因縁の始まりが、マリエを愛した私にあるからだ。


 マリエは私が初めて心から愛し、結ばれた妻だ。

 望まぬ政略結婚で結ばれたお前の母親、ジェーンとは違って。

 元々気性の激しいジェーンは、自分より先に男児を産んだマリエを憎み害する様になった。彼女が黙って耐えていたのをいいことに。


 妻達とどう接するか苦悩していた矢先、事件は起きた。

 二人目を身籠っていたマリエを、ジェーンは階段から突き落とし殺したのだ』



 ランドルフの全身が恐怖に凍り付く。

 脳裏に浮かんだのは、下半身を赤く染め苦しんでいたアーシャと、故意に医師を帰した第一夫人イライザの姿だった。



『真実を知った私は、この手でジェーンを殺そうとした。だが……その時ジェーンの腹にはお前が居たんだ。


 愛するマリエを殺した女をどうすることも出来ずに、私は苦しんだ。

 出産を終えたら殺してやる。その思いだけを支えに。

 ジェーンから守る為マリウスを別邸に移し、ひたすら時を待った。


 産まれてきたお前の顔を見ても、何の感情も生まれないどころか、ジェーンによく似た顔に憎しみさえ沸いた。

 もしジェーンを殺めたら、私は罪のない幼いお前まで手にかけてしまうかもしれない。

 そう考えたら怖くなり、結局ジェーンをどうすることも出来なくなってしまった』



 父が自分を愛せなかった……いや、憎んでいた理由が分かった。

 自分がこの世に生を受けたことで、父は母を殺すことが出来なくなってしまったのだから。

 ……やはり自分は、望まれていない命だったのだ。


 ランドルフの胸には何の哀しみもなく、ただ、果てしない虚無感が広がるばかりだった。



『あの火事で、マリウスがお前の母親を見殺しにした理由はもう想像がつくだろう。


 あの時マリウスが見殺しにしていなかったら、いつか私が殺していたかもしれない。それだけのことだ。


 ところがジェーンが死んでも、因縁は終わらなかった。

 彼女にそっくりな顔でマリウスを責め罵るお前を見る度、今度はお前に対して殺意を抱く様になったからだ。

 あろうことか、私は自分の子供に対して殺意を……


 いっそ真実を伝えてしまいたかった。

 お前の母親は殺人犯であり、見殺しにされても当然な女だったのだと。

 自分が楽になる為に、お前の人格を否定するか。

 その狭間で苦しみ、結局はどうしても伝えられなかった。


 今思えば……どちらにしても同じだったかもしれない。

 真実を伝えなければお前はマリウスを憎み続け、伝えていれば母親と自分を憎んだのだろうから。


 私のせいでお前は歪んでしまった。

 詫びても詫びきれない。

 私に出来るせめてもの償いは、お前に爵位と財産を遺すことだけだ。


 私が死んだ今、もうお前を憎む者はこの世に誰も居ない。

 マリウスを憎む必要もない。


 お前の人生は、お前だけのものだ。』



 憎む必要がない……?


 ランドルフは崩れ落ちる。


 そんなこと無理ですよ……父上。

 憎くて憎くて堪らないのは……



「ランドルフ」

 呼び掛けても反応がない。

 ハラリと落ちる便箋を拾うこともなく、ぼんやりと心を手放したその姿。



『人格が崩壊するかも知れない』



 ランドルフしか読むことの出来ないこの手紙には、一体何が書かれていたのだろう。


 皇子はしゃがみ、ランドルフに目線を合わせて言った。


「明後日、陛下の御前でマリウス院長とアーシャ先生が裁かれる。……弟として、夫として、その目で処分を見届ける様に」


 アーシャ……


 ランドルフの焦点が僅かに合った様な気がした。







 雲一つない澄んだ空の下、ヘイル国の宮殿では、この国の将来を揺るがす一つの裁きが行われようとしていた。


 アーシャが連れて来られた玉座の間には、既に大勢の姿があった。


 皇族や貴族の夫人方をはじめ、貧民街の住人など、自分が治療を施した者達。

 ヘイル国に来たばかりの頃、世話になった神官。

 そして病院のスタッフの中には……涙ぐみながら、こちらを見るミュゼットの姿があった。


 ミュゼット……明るく強く、どこまでも優しい、大好きな親友。知らず知らず微笑んでいた自分に、ミュゼットも泣きながら微笑み返してくれた。


 私は幸せだ。こんな風に愛してもらえて……


 20年間の私の人生。

 幼少期は貧しい中虐待を受け、成人してからは国外に追放され……端から見れば、短く不運な人生かもしれない。

 けれど、こうして振り返れば、私は有り余る程の幸せを手にしていた。


 優しい母と可愛い弟達に恵まれ、偶然授かった回復魔力のお陰で学園に通い医師にもなれた。

 ルイス皇太子とマリウス先生……二人の男性を真剣に愛し、望まぬ結婚だったとはいえ、ランドルフ様に愛され子供を授かることも出来た。

 ミュゼットにテレサさん、孤児院の子供達、ジョシュア皇子にサンドラ様。

 沢山の素晴らしい人に巡り合った人生。


 神様……ありがとうございます。

 尊い人生をありがとうございます。


 アーシャは手を組み、祈りを捧げた。



 カツン……


 足音に顔を上げれば、そこにはこの世で一番愛しい人が立っていた。


 言葉を交わさずとも分かる。

 その翠色の瞳と全く同じものが、自分の瞳にも浮かんでいるだろう。


 大丈夫──もう何も怖くない。


 強い視線を重ねた時……その場の空気が瞬時に変わった。


「皇帝陛下の御成りです」



 ゆったりと玉座に腰掛ける気配。

 許しを得て上げた顔の先には、王冠を着けた初老の男性が座っていた。


 サレジア国の皇帝とは違う……

 全体的に線が細く小柄だというのに、その身体から醸し出される独特のオーラに、アーシャは息を飲んだ。


「これより、マリウス・ハミルトン医師及びアーシャ・ミラー医師の、少女売買容疑について裁きを行う」

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