第53話 ~開~
……アーシャ?
「アーシャが……アーシャがどうかしたのですか!?」
マリウスの表情がガラリと変わる。
それは先程迄の冷静な医師の顔ではなく、一人の女を想うただの男の顔だった。
激しい感情に歪む顔。
つい先日も、これと同じ表情を見たばかりだ……
マリウス院長とランドルフ。
異母兄弟で容姿が似ていないばかりか、性格も真逆に思える。
だが……二人には確かに同じ血が流れている。ジョシュア皇子はそう感じていた。
「アーシャ先生が虚偽の自白をしたんだ。子供を騙して売り飛ばしたのは、貴方ではなく自分だってね」
「……馬鹿な!そんな訳ない!彼女がそんなことをする訳がない!」
「分かっている。彼女は貴方を守り、そして近しい誰かを庇おうとしている」
近しい……誰か。
「……ランドルフですか?」
「ああ。ランドルフは貴方を陥れ、徹底的に排除するつもりだ」
「何故……兄である私が処罰されれば、ランドルフの立場も危うくなると言うのに!」
「ハミルトン医師」
皇子はマリウスの熱を冷ます様に、その翠色の瞳を冷静に見据えた。
「私は、貴方とアーシャ先生を初めてパーティーで見た時から、貴方達は想い合っているものだと思っていた。だから彼女がランドルフと結婚したと聞いた時は驚いたよ」
「殿下」
「貴方達兄弟に深い溝があることは知っていたし、きっとランドルフが何かを仕掛けたのだろうと」
皇子は、サレジア国の国章が入った一冊の調査書をマリウスに差し出す。
「読んでくれ」
サレジア国……嫌な予感と共にマリウスが開いた中には、やはりアーシャの過去が書かれていた。
「大して驚かない所を見ると、貴方は知っていた様だな。彼女が黒魔術を使いサレジア国を追放されたことを」
「……はい。申し訳ありません。事情を知りながらも働かせていたのは私の責任です」
「いや、私も君の立場ならそうしただろう。彼女は確かに犯罪者かもしれないが、優しく尊い
温かな皇子の言葉に、アーシャと此処で共に過ごした日々が溢れ出す。
マリウスは下を向き、必死に堪えた。
「サレジア国側の話によると、以前にも、ヘイル国のある人物から彼女の調査書を求められたらしい」
「それは……!」
「用心の為別の名を借りてはいるが、依頼の経緯からしてランドルフで間違いないだろう。
二人が結婚したのは、マリエンヌ病院が公共事業に認定されるかどうかの大事な時期だった。私が推測するに……手に入れた調査書で彼女を脅し、結婚に持ち込んだのではないだろうか」
マリウスは両手で顔を覆う。
もしそれが本当なら……彼女はどんなに苦しんだか。辛い過去と向き合いながら、俺の地位を守ろうと。何も気付いてやれなかった……
ランドルフより何より、自分が
彼女を守れなかった、愚かな自分が赦せない。
マリウスはおもむろに顔を上げ、口を開いた。
「……殿下、先程の氷結花は何に使われたのですか?」
「ベン・パドスを知っているか?孤児院のルカという子供の父親だ。その男が、氷結花を煎じて自白者……アーシャ先生の父親に飲ませた。貴方に命じられたと」
やはり自白者はアーシャの父親だったか。そして自分に恨みを持つルカの父親。どちらもランドルフが、自分を排除する駒として動かした。
ランドルフが全てを投げ売って、自分をここまで攻撃するのは……
『アーシャ、ランドルフは、君を大切にしてくれるか?』
『はい。とても親切にして下さいます』
『アイツが俺に従順でいる限り、今後俺はお前を害さない』
ランドルフは……アーシャのことを……
「ランドルフは、アーシャ先生を想っている。学生時代から彼を見てきたから分かるよ」
まるで自分の心を読んだ様な皇子の言葉。
何処かで認めたくなかった。
大切にして欲しいと自分で言っておきながら、彼女を手に入れたアイツに対して激しい嫉妬を抱いていた。
「彼女の全てを手に入れる為に、貴方を排除したいのだろう」
全て?
マリウスは顔を歪め笑う。
「アイツは彼女を手に入れたじゃないか……大切にしてきたものを……いとも簡単に自分のものに……
妻として傍に置いて、子供まで。俺が毎日どんな気持ちだったか……これ以上、これ以上、アーシャの何を望むと言うんだ!!」
机を拳で叩き、肩を震わせるマリウスに、皇子は静かに言った。
「ランドルフが望んでも、決して手に入らないものが貴方にはあるのだろう」
手に入らないもの……
右手の小指が、じんと熱くなる。
心を繋げた自分と、身体を繋げたランドルフ。
愛する一人の女性を巡り、どちらも同じ様に苦しんでいたのだろうか。
このままでは確実に三人とも倒れてしまう。
アーシャは俺とランドルフを守る為、虚偽の自白を覆さない。
俺はそんなアーシャを守る為、虚偽の自白をする。
ランドルフもまたアーシャを守る為、俺を追い込み自滅するだろう。
……本当は分かっている。
こうなったのは、全て弱い自分のせいだ。毛と傷に覆われていたかつてのあの顔は、臆病で情けない自分そのもので。
大切にしていたのはアーシャではなく、自分自身。自分が傷付きたくない為に、アーシャを遠ざけたのだ。
ランドルフの様に、心のままに彼女を求め愛を伝えていたなら、今頃こんなことにはなっていなかった。
彼女を守る為、過去とは決別しなくてはならない。
アーシャが綺麗にしてくれたこの顔を上げて、強く真っ直ぐ生きていこう。
マリウスは決意し、口を開いた。
「殿下、ランドルフに渡して頂きたい物があります」
マリウスは自室の戸棚からある物を取り出すと、ジョシュア皇子に渡した。
それは手の平に収まる位の小さな箱。じわりと伝わるその魔力から、封印されていることが分かる。
「父がランドルフへ遺した物です。彼しか開けることが出来ません」
「何故貴方が持っているのだ?」
「……父に託されたからです」
『マリウス……もしいつかランドルフが、お前やお前の大切なものを酷く害する時が来たら、これを渡して欲しい。
……但しこれを渡せば、ランドルフの人格は崩壊するかもしれん。決断はお前に委ねる』
「中に何が入っているかは分かりません。ただ、今がその時だと思うのです。今度は私が、アーシャを守る番です」
静かなハミルトン家の屋敷。
第一夫人イライザと娘のドロシーだけでなく、第二夫人も実家に返し離縁の手続きを進めている。
今、此処には
ランドルフは部屋で一人、誕生日にアーシャから贈られた膝掛けを愛しげに撫でる。
……彼女を救い出したら、二人きり何処へ行こうか。
このヘイル国とは正反対の、温かいムジリカ国が良いかも知れない。彼女は冷え性なのだから、きっと過ごしやすい筈だ。バナナも沢山あるし、美しい海も見せてやりたい。
柔らかい編み目に震える唇を落とした時──
突如表に、ジョシュア皇子の紋章入りの馬車がやって来た。
ランドルフは驚くも、数人しか兵を連れていない所を見ると、捕らえられる訳ではなさそうだ。
だが……何かを探りに来たのだろう。警戒しながら皇子を中へ通す。
「この屋敷に来るのは久しぶりだな」
格式高い広間を見回す皇子。
「わざわざこの様な所まで……何かご用でしょうか?」
皇子は小箱を取り出し、ランドルフに渡した。
「マリウス院長から預かった。お父上が君に遺した物だそうだ」
父上が……? 一体何だ。
ランドルフが蓋に触ると、箱は呆気なく開いた。
中から出てきたのは、一本の銀の鍵。
そっとつまみ上げ、ひっくり返しては暫し眺める。
鍵…………鍵!
突如電流が走ったかの様に、全身が震える。
ランドルフは箱を放り投げると、皇子の存在も忘れ階段を駆け上がった。
北の突き当たりのその部屋まで来ると、息を吐き、鍵を差し込む。
扉は、開かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます