第45話 ~乱~
「アーシャ様、御不浄へ」
手枷に鍵を差し外すと、細い背中を支え起こす。
鬱血痕だらけの痛々しい白い肌から、侍女は目を反らした。
さっと清拭するとタオルで包み、弱った身体を支えながら歩く。
『アーシャに服を与えるな。排泄時以外は決して手枷を外してはならない』
唯一この部屋に入ることを許されたアーシャ付きの侍女は、主人からそう厳しく命じられていた。
気難しく人と接することを好まない主人の寝室には、元々化粧室と浴室が備え付けてある為、食事さえ運べば、生命活動に必要な全ての用は足りる。
ただ、入浴と水以外の食事は、主人の手でのみ与えることが許されていた。
一日中裸体のまま……主人の留守中は手枷でベッドに拘束され、在宅中は執拗に身体を求められる。
あんなにアーシャ様を大切にしていた主人が、何故奴隷の様な
原因は分からないが、最近めっきり穏やかになっていた主人の目つきは、以前にも増して鋭くなり狂気さえ帯びている。
顔を直視出来ない程恐ろしく、我が女主人を不憫に思いながらも言う通りに従うしかなかった。
「変わりは?」
「いえ……何もございません」
「食事の用意を」
ランドルフは手枷の鍵を受け取り寝室に入ると、真っ直ぐベッドへ行きアーシャの状態を確認する。
「……生きていたか」
軽く頭を下げるものの、何も喋らない。
やがてベッドサイドへ届けられた食事を、ランドルフはアーシャの口元へ運ぶ。
シチューが乗った
「……今日の食事は終わりだ」
アーシャは動じることもなく、ただ黙ったまま下を向く。
「お前の命なんて、俺の気分次第だ。……このまま餓死させてやろうか」
変わらぬアーシャに業を煮やし、ぐいと顎を掴みこちらを向かせると、透き通った鳶色の瞳にぶつかる。
鏡の様なそれに映ったのは、嫉妬と愛憎が入り交じった醜い自分。
この顔……何処かで見たことが……
思い出そうとすると、心臓がギリギリと苦しくなる。
ランドルフは震える手からアーシャの顎を解放すると、混乱する自分を激しく彼女へ打ち付けていった。
手枷を外すことも忘れたまま……
ズキズキと脈打つ痛みに瞼を開けると、灯りが煌々と点いたままの視界。いつもと変わらぬベッド周りがそこにあった。
ピッチャーとコップだけが置かれたサイドテーブル。
以前食事をしていた遠くのテーブルには、ほとんど手つかずのまま冷めきっているであろう皿。
……お腹が空いた。
朝食以来ほとんど何も食べていない腹が悲鳴を上げている。その当たり前の生理現象に、アーシャは安堵した。
……大丈夫。空腹を感じるなら、まだ生きていけるわ。
斜め上を見れば、手枷でベッドと繋がれた自分の左手首。
繋がれたまま無理な体勢を取らされ続けたせいで、うっすら血が滲んでいる。
痛みは此処からだったのね。
がっちりと自分の腰を抱くランドルフの腕から身体を伸ばし、手首の状態を見る。
今の体力でも何とか治せるかしら……
自由な右手をかざし、魔力を送ろうとするも、途中でハタリと力尽きた。
『この世の何処かで君が生きているなら、俺も生きていたい。同じ時代を生きていたい』
先生……
愛しい指……先生と繋いだ左手の小指……
右手で触れることも、唇を寄せることも叶わずに、アーシャは涙を流した。
「うう……」
背後から、ランドルフの苦し気な呻き声が聞こえる。
……貴方は一体、どんな夢に苦しんでいるの?
生きるって、ただ生きるって、こんなに辛いのに。
何故神様は夢の中くらい穏やかに居させて下さらないのだろうか。
右手を彼の額に伸ばし、体力を振り絞りながら赤い魔力を送っていった。
もう大丈夫かしら……
穏やかになっていく表情。
支えていられず、引っ込めようとした手が彼のこめかみを掠める。
その瞬間、ランドルフはバッと跳ね起き、アーシャの手首を掴んだ。
「……何をしていた?」
「
「お前、いつもこうして俺に妖しい催眠魔術をかけていたのか」
持てる気力で必死に首を振るアーシャを、ランドルフは睨み付ける。
「そういえば……お前は黒魔術でサレジア国の皇太子をたぶらかした悪女だったな。すっかり忘れていたよ」
悪女……
何も間違っていない。間違っていないのに……
何故涙が溢れるのだろう。
「そんなもので誤魔化されるか!」
ランドルフはアーシャに覆い被さり、両手で顔を掴む。
「これはお前の本当の顔か?確かミュゼットの目を治療したのは、醜い魔女みたいな女だよな?」
ランドルフの身体が、ピシピシと冷気をはらんでいく。
「おかしいと思ったんだよ……この俺が、お前みたいな女に翻弄されるなんて」
冷たい手は、徐々に彼女の首元へ下りていく。
「お前の化けの皮を剥がしてやる」
ぐっと力を入れた。
その日は気味が悪い位、穏やかな一日だった。
外来患者も入院患者も少なく、孤児院の子供達も、ジョシュア皇子の好意で彼の別荘へ招待され不在だ。
時間をもて余し、診察室の棚を片付けていると、手に痛みが走った。
どうやら飛び出していた釘に手を引っ掛かけたらしい。右手の小指がザックリと切れ、血が流れている。
マリウスは手をかざし緑色の光に包むと、元に戻ったそれをじっと見つめる。
アーシャと繋いだ小指……何か、嫌な予感がした。
その時、先程閉めた筈の外来の入口が、何やらガヤガヤと騒がしくなる。何事かと出てみると、ジョシュア皇子の紋章を付けた兵がざっと十数人。慌てる看護師達へ何かを突き付けていた。
「……何事だ?」
「マリウス・ハミルトン医師。皇帝陛下の名代、ジョシュア・ブルゲール皇子殿下の命で、今からこのマリエンヌ小児病院及び孤児院を家宅捜索する」
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