第44話 ~叫~
どうやって帰ったのか分からない。
気付けば屋敷に着き、足は勝手に自分の寝室へと向かう。
「……おい。屋敷中の酒を持って来い」
殺気だった主人の様子に、従者は震えながら返事をした。
寝室に入るなり、ランドルフは近くの椅子を蹴り上げる。手当たり次第物を投げ、何もなくなると、窓辺に行きカーテンを引き裂いた。
それでも収まらず、クローゼットを開け衣服を壁に投げ付ける。空になり、今度は引き出しを開けると……
誕生日に、アーシャから贈られた膝掛けが現れた。
ランドルフの全身がわなわなと震え出す。おもむろにそれを取り出すと、両手で掴み左右にぐっと力を入れる。
だが……結局何も出来ずに、それはランドルフの足元へハラリと落ちた。
丁度その時、従者が酒を手に部屋をノックした。ランドルフは血走った目で酒瓶を奪い取ると、栓を開け、そのままゴクゴクと喉に流し込む。
主人の異様さに従者は怯え、グラスと酒瓶を数本置くと、そそくさと部屋を後にした。
空きっ腹に強い酒が一気に回り、ランドルフはふらつきながら床の膝掛けを拾う。
柔らかく温かいそれに、冷たい顔を埋め叫んだ。
「アーシャ……アーシャ……!」
父上も……母上も……そして彼女まで。
自分の大切なものは全て……
マリウスと別れたアーシャは、馬車で左手の小指をじっと見つめる。
まだ温もりの残るそれに、震える唇を落としていく。
愛しています……貴方を愛しています。
言えなかった言葉を、心で何度も唱えた。
屋敷はいつもと違う雰囲気に包まれていた。
「アーシャ様、お帰りなさいませ……」
自分を出迎える使用人達の様子がどこかおかしい。
「何かあったの?」
「いえ……変わりはございません」
「旦那様はお帰りですか?」
「はい……寝室でお休みになっていらっしゃいます」
こんな早くから?体調を崩されたのかしら。
アーシャは真っ直ぐランドルフの寝室へと向かう。流産後、いつの間にか二人の寝室となっているその部屋へ。
ドアの前に経つと、青い顔の侍女に腕を掴まれる。
「……アーシャ様、今はお入りにならない方が」
「おい!ご主人様のご命令だぞ。アーシャ様がお戻り次第、すぐに連れて来る様にと」
侍女を咎める従者。
……やはりランドルフ様に何かあった様だ。
従者の声を聞き付けたのか、バンと乱暴に部屋のドアが開く。
「……帰ったらすぐ連れて来いと言っただろう」
乱れた金色の巻き毛に、胸元がはだけただらしないシャツ。むせ返る様な酒の臭いが、彼から漂う。
侍女も従者も怯えながら顔を伏せる。
「……来い!」
アーシャは腕を掴まれ、部屋に引きずり込まれた。
両手を掴まれ、壁に身体を押し付けられたアーシャは、そこで改めてランドルフの異様さに気付く。
感情のないどす黒い顔。
最近では人間味さえ感じていた蛇の様な目は、硝子玉の様に自分を見下ろしている。
怖い……この人が怖い。
アーシャは、結婚して以来初めて彼に恐怖心を抱いた。
「……随分遅かったな」
「申し訳ありません……市場で買い物をした後、事情があり貧民街へ寄りました」
「事情……」
「はい。市場で貧民街の顔見知りの子供と出会いまして……家族の具合が良くないと言うので、様子を見に行きました」
「ふうん」
何も咎められないことが、返って恐ろしい。アーシャは必死に話を続けた。
「お約束を破り貧民街へ行ったこと、申し訳なく思っております。魔力は使わず、手技だけで治療を済ませましたので、お許し頂けませんでしょうか?」
「許す……ね。許す……」
ランドルフは下を向くと、クックッと低い笑い声を上げる。やがて、再び自分を見下ろすその顔にアーシャの背筋が凍り付く。
「……一人で治療をしたのか?」
「いえ……別の医師と」
「どこの医師だ?」
アーシャの心臓がドクドクと打つ。
偶然会っただけだ……何も疚しいことはない。
正直に言おうと口を開いた途端、身体を担ぎ上げられ、ベッドに放り投げられた。
ずしりと、態と体重を掛ける様に上に乗られ、アーシャは上手く息が出来ない。
恐怖におののく彼女の耳元に、ランドルフは囁く。
「……お前が貧民街へ行きたがる理由が分かったよ。マリウスと会う為だったんだな」
アーシャは目を見開き、激しく首を振る。
「違います!今日はたまたま会っただけで、今まで一度も……兵に確認してもらっても構いませ」
「黙れ!!」
アーシャの言葉を激しく遮る。
「お前は……お前は俺の子供を殺してまで、アイツに会いに貧民街へ行っていたのか。隠れてこそこそと……アイツと会う為に!!」
「違います!!」
負けじと叫ぶが、ランドルフの耳には何も届かない。
「ああ……そうか、流れた子も、俺の子じゃないかもしれないな。幾ら見てくれが良くても、所詮お前は卑しい女だ」
……この人は本気で言っているのだろうか。あれだけ人の身体を
これ以上ない侮辱に目の前が暗くなり、静かな声で反論した。
「……貴方の子です。間違いなく、貴方の子です」
「黙れ!!!」
はあはあと息を切らしながら叫ぶランドルフ。その顔からは徐々に怒りが消え去り、ただ苦痛に満ちていった。
「父上も……マリウスだけを愛していた。唯一愛してくれていた母上も殺されて。お前も……お前まで」
ポタッ、ポタッと、アーシャの頬に何かが落ちた。
よく見れば、氷の様に冷たい雫が、ランドルフの瞳から溢れている。
「お前なんか……愛さなければ良かった」
…………愛…………
アーシャの瞳が大きく見開く。
「愛さなければ、こんな……こんな苦しみを!」
ランドルフの叫びが胸を突き破る。
ああ……自分はなんと愚かな人間だろう。
確かに、彼は自分を愛していた。
その言葉、行動の裏には、確かに愛が存在していた。
その愛を当たり前の様に振りかざし、彼の心を粉々に打ち砕いたのは自分だ。
気付きたくなかった……見て見ぬふりをした。
自分が愛しているのは……マリウスただ一人だから。
ランドルフは再び低い声で笑い始める。
「……元々お前は愛人にするつもりだったんだ。卑しい平民の娘なんかに、侯爵夫人が務まる訳がなかったな」
アーシャの襟元を掴むと、ビリビリと乱暴に引き裂いた。
「俺の子供を孕むまで、何処にも行かせない。お前は永遠に……俺の所有物だ!!」
『父上!今日、難しい数式を全て解いて、先生に褒められました』
『そうか』
『……何処かへお出掛けですか?』
『マリウスと墓参りがてら旅をして来る。二週間は戻らない』
『僕も一緒に行ってはいけませんか?』
『お前は連れて行けない。しっかり留守番し、勉学に励みなさい』
『僕は……僕は、父上と一度も旅をしたことがありません。何故いつもマリウスばかりなのですか?』
『兄上を呼び捨てにするんじゃない!』
『……アイツは母上を殺したんだ!兄だなんて思えません!』
『黙れ!!』
パシッと頬を打たれる痛みに、目を覚ます。
幼い自分を見下ろす、父の憎々しげな顔が今でも目に焼き付いて離れない。
段々意識が覚醒してくると、自分の腕の中にある筈のものがないことに気付く。慌てて身体を起こすと、それはベッドの端にぐったりとうつ伏せになっていた。
……死んだか?
朝日に照らされた白い背中を揺さぶると、唇から、うっと微かな吐息が漏れる。
……別に死んでもいい。俺の腕の中で死ねば、永遠に俺のものになるかもしれない。身体も……心も。
腕に引き寄せ、強く抱き締めた。
ランドルフはゆっくり起き上がり、机から手枷を出すと、アーシャの細い手首とベッドの支柱とをくくり付ける。
何処にも逃がさない……絶対に。
狂気じみた顔で満足気に笑う。
床に散らばった服の中から最初に掴んだ物を無造作に着ると、寝室を後にした。
手枷の鍵を侍女に渡し何やら指示をすると、ランドルフは髪も顔も整えず馬車に乗り込む。
向かった先は別邸。中に入ると真っ直ぐ地下に下り、アーシャの父親の元へ。
もはや自分を見るだけで、ガタガタと怯え出す男。
アーシャによく似た鳶色の瞳が、恐怖におののくのが愉快だ。
ランドルフは男に目線を合わせると言った。
「……お前に仕事だ」
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