第43話 ~指~
「とても良いですね。筋腫の大きさも変わりませんし、血の巡りが良くなっています」
「そうなの。前は身体中が冷えて眠れなかったのに、今はぐっすりよ。アーシャ先生が教えて下さったお薬のおかげね」
「このご様子でしたら、次の検診は半年後でも大丈夫そうです」
「あら、それは寂しいわね。アーシャ先生と色々お話するのを楽しみにしているものですから」
「ありがとうございます」
「そうそう!最近流行りのドレスの形がね、コルセットなしでも……」
お茶を飲みながら夫人の他愛ないお喋りに付き合い、アルマンド侯爵邸を出たのは昼前だった。昼食も一緒にと勧められたが、予定がある為丁重に断った。
今日はランドルフから、薬草の買い出しに行く許可をもらっている。やはりこればかりは、自分で市場に足を運び、質の良い物を選びたいからだ。
市場は地方や異国から仕入れた、様々な物資で賑わっている。兵と共に一通り見て回ると、薬草の卸売業者の元へ行き、用意したメモを見ながら吟味していく。
ドン!!
何かがアーシャにぶつかりそうになり、咄嗟に庇った兵と衝突し地面に倒れた。林檎やパンが飛び散り、その中に小さな男の子がうずくまっている。
「奥様、お怪我はありませんか?」
兵に返事をしようとした時、
「泥棒だ!その子供を捕まえてくれ!」
こちらへ向かう男の声に、子供はビクッと立ち上がろうとするも、顔をしかめて再び倒れた。
その顔を覗き込んだアーシャは、あることに気付く。
「……ルーク?」
聞き覚えのある声に、子供もはっと顔を上げる。
「アーシャ先生」
それは、貧民街で何度か治療をした子供だった。
「……おい!その子を寄越せ!自警団に付き出してやる!」
息を切らせてやって来た男の前に、アーシャは立ち塞がる。
「この子は私の知り合いです。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。駄目にしてしまった物のお代はお支払い致しますので、ここは見逃して頂けませんでしょうか?」
「何だと?」
アーシャの貴婦人然とした身なりと、傍らの立派な護衛兵に気付き、男は態度を改める。
「まあ……ちゃんとお支払い頂けるのであれば、今回だけは」
盗まれた品物の倍以上の金を受け取り、満足そうに去って行った。
「少し足を挫いたみたいね」
アーシャはルークの足に手をかざし、赤い魔力で包んでいく。
「奥様!」
咎める兵を、しっと唇に指を当て制する。
「この位は大した魔力を使わないから。……どう?ルーク、立てる?」
足が治ったことを確認すると、馬車に連れて行き座らせた。
「何故あんなことをしたの?」
「お祖父ちゃんが……お祖父ちゃんの具合があまり良くなくて。栄養を付けさせたかったんだ」
ルークの祖父は肺癌を患っており、心臓に尋ねた所、もう積極的な治療が出来る状態ではなかった。薬や魔力で症状を緩和しつつ、様子を見守っていたのだが……
「お医者様は?」
「もうこれ以上何も出来ないって……薬も全然効かないんだ。今日は居ないし」
「そう……」
ランドルフが手配した医師がどの程度の技量の持ち主かは不明だが、癌の進行により病状が悪化しているのは間違いないだろう。
アーシャと会えて安心したのか、ボロボロと涙を流すルーク。9歳なのに、その身体は痩せ細っており6歳位にしか見えない。自分もお腹が空いている筈なのに、病気の祖父の為にと必死で食べ物を盗んだ。アーシャの胸がギリギリと締め付けられる。
「……暫く来られなくてごめんなさいね、ルーク。今から先生がお祖父ちゃんの病気を診に行くから。泣かないで、ね」
細い指で、ルークの涙を拭う。
「奥様!いけません、貧民街まで行く許可は頂いておりません」
馬車の外から兵が咎める。
「魔力は使いません。様子を見るだけですから」
「しかし……これは流石にご主人様にご報告せざるを得ません」
「構いません。私から説明しますから」
アーシャはルークの肩を抱きながら、貧民街へ向かう様御者に命じた。
貧民街へ到着すると、道で遊んでいた子供達がわっとやって来る。
「アーシャ先生!」
「みんな……元気にしてた?」
小さな身体を順番に抱き締めていく。
「今日は突然だったからお菓子はないのだけど、市場で果物を買って来たわ。みんなで仲良く分けて食べてね」
紙袋を覗き、わあっと声を上げる子供達。オレンジを一つ手にした子供が、嬉しそうにアーシャの服を引っ張る。
「アーシャ先生、今日ね新しい先生が来ているんだよ」
新しい先生?
ランドルフ様が新しい医師を送って下さったのだろうか。ルークの家で治療をしていると聞かされ、早速向かう。
ギイイ……
──建て付けの悪い戸の先には、麻のシャツに包まれた広い背中があった。
捲った袖から出ている、筋肉質の逞しい腕。一つに束ねた艶やかな金色の髪。
こちらを振り返り、大きく見開いたのは……美しい翠色の瞳。
この世で一番美しい、翠色の瞳。
「……アーシャ?」
「先生」
何も言葉が出てこない。暫く時が止まった様に、互いを見つめていた。
「うう……」
ルークの祖父の呻き声で、はっと我に返る。
マリウスの手元には薬草があり、これから煎じる準備をしていた様だ。アーシャはコートを脱ぐと、さっとエプロンを締める。
「私が煎じてきます」
「ああ、頼む」
二人はほとんど言葉を交わさずとも、息の合った動作で治療を行っていく。
彼がこう動いたら支える。
彼女がこう動いたら手を伸ばす。
それは互いの信頼関係から生まれる呼吸であった。
治療を終えた頃には、ルークの祖父は穏やかな寝息を立てていた。
「お義父さんがこんな顔をするのは久しぶり。最近は痛みで眠ることも出来なかったみたいですから」
涙を流すルークの母に、マリウスは調合した薬草を差し出す。
「また痛みが出たら、一包ずつ煎じて飲ませて下さい。明後日また来るから、その時に他の薬草も試してみよう」
「ありがとうございます」
幼いルークも、母親と一緒に深々と頭を下げた。
ルークの家を出ると、二人は無言のまま道に立ち尽くす。
言いたいことは沢山あるのに……何も言葉が出て来ない。
アーシャは震える唇を噛み締める。
「昼……食べたか?」
ぽつりと呟いたマリウスの手には、懐かしい包みが握られていた。
貧民街の裏の草むらに、二人は腰を下ろす。
マリウスから渡された包みを開けると、アーシャはぱあっと顔を輝かせた。
「ポテトサラダの……」
「好きだろ?」
「はい」
一つずつサンドイッチを手に取り微笑み合う。
なるほど……ミュゼットの言う通り、栗鼠みたいだな。サンドイッチで膨らんだ薔薇色の頬に、マリウスの胸が愛しさで溢れた。
「……体調は大丈夫か?」
「はい。貴重な薬草を沢山ありがとうございました。お陰様で良くなりました」
「そうか……安心したよ。顔色も良さそうだな」
ランドルフがアーシャの為に、憎い自分から薬草を受け取った。……ということは、少なくともアーシャへの何かしらの情はあると考えて良さそうだ。
安堵と共に、マリウスは複雑な気持ちに襲われていた。
「先生は何故こちらへ?」
「ジョシュア皇子の発案で、今度この辺りに新しい病院を建てることになってね。それで治療がてら街の視察に来てたんだよ」
「そうだったんですか……」
「やはり“アーシャ先生”は君のことだったんだね。前は腕のいい女医さんがよく来てくれたって、街の人達が言っていた」
「流産してからは来られなくなってしまって……ランドルフ様が代わりの医師を派遣して下さっています」
「うん……そのようだね。皆とても助かると言っていたよ」
別の医師を派遣したのはランドルフだったのか。アーシャの為にそこまで……
さっきの複雑な気持ちが、マリウスの中で大きくなっていった。
「アーシャ……ランドルフは、君を大切にしてくれるか?」
突然の問いに、アーシャは一瞬躊躇う。マリウスの翠色の瞳は、何事も逃すまいとするかの様に、アーシャを捕える。
「……はい。とても親切にして下さいます。流産したのは私の不注意ですのに、こうして働き続けることも許して下さいました」
「……そうか。それなら……いいんだ。辛い目に遭ってはいないかと、ずっと心配していたから」
不意に冷たい風が二人を煽り、マリウスは顔に落ちた前髪を後ろに掻き上げた。
「顔に毛がないと、やっぱり寒いな」
冗談めかして言うマリウスに、アーシャもくすりと笑う。
「先生のお顔は、この寒いヘイル国に適したお顔だったんですね」
「どうやらその様だな」
ひとしきり笑い合った後、二人はふと口を閉ざす。
暫くただ風に身を委ね……やがてマリウスはそっと言葉を発した。
「毎日の様に鏡を見て……この顔に問い掛けるんだ。自分は何の為に生きているんだろうって。返って来た答えは……贖罪でも何でもなく……ただ、“君”だった。
この世の何処かで君が生きているなら、俺も生きていたい。同じ時代を生きていたい」
アーシャの瞳にどっと涙が溢れる。
それはマリウスの瞳にもいつの間にか。
伝えたい想いが、言葉の代わりに頬を濡らしていく。
草の上に置かれた互いの小指が触れ合う。
ほんの少し……少しだけ伸ばし、それを絡めてみれば、更にじわりと伝わる温もり。
これ以上はいけない。
全身が、悦びと恐怖に震える。
二人は何も言わずに見つめ合った。
自分達は繋がっている。深く、深く。
この先どんなに離れても、互いの為に生きていく限り。
次に会えるのはいつか分からない。……もう二度と会えないかもしれない。
だったら、覚えていて欲しいのは──
アーシャは精一杯の微笑みをマリウスへ向けた。
……想像以上に酷い所だな。
荒れた街の様子を見てランドルフは顔をしかめる。
アーシャはこんな所に来ていたのか。幾ら護衛兵と一緒だとはいえ、とても許容出来る場所ではない。
恐らく貧民どもが虫の様にアーシャに群がり、彼女の魔力を奪い取ったのだろう。そのせいで……
もっと早くに出入りを禁ずるべきだった。
ランドルフはギリギリと奥歯を噛む。
元々金にならない慈善事業には興味がない。貧民どもが野垂れ死のうが一向に構わないが……
「おい、それを持って来い」
ランドルフは兵に命じ、大きな荷物を降ろす。
別の医師を派遣しても、度々貧民街のことを気に掛けるアーシャ。近い内、支援物資を届けてやると約束していた。
別に使いを遣っても良かったが……近くまで来たついでだ。この目で見た状況を伝えた方が、より彼女を安心させられるだろう。
兵と共に奥へ進むと、細く枝分かれする道の手前に、一台の馬車が停まっている。
あれは……!
それは紛れもない、ハミルトン家の馬車。
アーシャのヤツ……あれ程行くなと行ったのに!
ランドルフは鼻息荒く、細い道の奥へ進んでいく。家が途切れた向こうに草むらが見え、そこにアーシャの護衛兵が立っている。
「おい」
突然現れたランドルフに、兵は慌てた。
「アーシャはどこだ」
「あちらに……」
兵の目線の先にゆっくりと目をやる。
そこに居たのは、この世の幸福を全て集めた様な、眩しい顔で微笑むアーシャ。その鳶色の瞳は、深い愛情に潤んでいる。
喉から手が出る程、自分が求めて止まない彼女の
それを向けられているのは……
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