第38話 ~涙~


『自分を犠牲にしてまでお前の地位を守ったのに』


『アイツが俺に従順でいる限り、今後俺はお前を害さない』


 やはりアーシャはランドルフに脅されて結婚したのだ。

 何か弱みを握られ、俺を守る為に……


 マリウスは勲章を外すと、部屋の壁に思いきり投げ付ける。

 こんな物……!

 アーシャに代わる物など、何もないというのに。

 もう一度あの時に戻りたい。戻ってランドルフを殺してやりたい。


 嗚咽を漏らすマリウスの頬を、滂沱の涙が濡らしていた。






 それから二ヶ月程たった頃だったある朝。

 南瓜とバナナのプディングを前に、スプーンを手にしたまま躊躇うアーシャに、ランドルフが尋ねる。

「食べないのか?」

「……すみません、お腹が一杯になってしまって」

 プディングの隣の皿を見れば、小さめのサンドイッチがほんの数口かじられただけだ。

 顔を見れば、いつもは薔薇色の頬が青白く、目はどこかぼんやりしている。


「最近また抱き心地が悪くなってきた」

「申し訳ありません」

「……食べないなら仕事を辞めさせるぞ」

 アーシャは契約違反だと言い返すこともせず、黙ってスプーンを口に運ぶ。だが結局胃が受け付けず、そのほとんどを残してしまった。


 食後はランドルフの指示でハーブティが出された。一口飲み、頬を緩めるアーシャにランドルフはほっとする。

「……ランドルフ様にお渡ししたい物があります」

 アーシャは静かに席を立つと、クローゼットの引き出しから包みを取り出しランドルフへ渡す。

「何だ、これは」

「開けて下さい」

 リボンをほどくと、濃いグレーと紫色の毛糸で編んだ布が現れた。

「膝掛けです。立派な毛皮をお持ちだと思いますが……お部屋の中で使われるのに良いかと思いまして」

「……お前が作ったのか?」

 ランドルフは立ち上がると膝掛けを広げ、ひっくり返しながらまじまじと見つめる。

「はい。お誕生日おめでとうございます」

「知っていたのか」

「侍女に教えてもらいました」


 ランドルフは再び座ると、膝掛けを足に掛けそれに目線を落とす。

「自分の誕生なんて……きっと母上だけしか喜ばなかっただろう。なのにこうして毎年この日はやって来て、おめでとうだの贈り物だの、周りは形式的に祝おうとする」


 機嫌を損ねてしまったのだろうか。しかし、恐る恐る見たランドルフの顔は、意外にも穏やかだった。

「余計なことをして申し訳ありませんでした」

「全くその通りだ。よりによってこんなみすぼらしい物を。……まあ、部屋の中で使うには問題ないだろう。此処へ置いといてくれ」

「はい」

 優しく微笑むアーシャに、ランドルフの胸が熱くなる。膝掛けを畳む彼女の腰を引き寄せると、自分の膝に座らせた。

「今日は何処へ出掛けるんだ?」

「ジョシュア殿下のお屋敷です。皇女様の検診に」

「顔色が悪いから今日は休め」

「何ヵ月も前からお約束していたので、それは出来ません」


 くそ……どいつもこいつも、自分の妻を道具みたいに扱いやがって。

 ランドルフの眉間に皺が寄る。


「今日は俺も外出するが、夕方迄には帰る。一緒に夕飯を食べよう。お前の為に特別にケーキも作らせるから」

「ありがとうございます」

 がっしりした手で、妻の白い頬を撫でた。





 馬車の座席で、アーシャは少し顔をしかめながら腰をさする。倦怠感と下腹部の重み。数週間前に診た時は何もなかったけど……もしかしたら久々に月のものが来るのかもしれない。

 下腹部に手をかざそうとして、アーシャは止めた。今日は大事な検診が控えているし、帰りに貧民街にも寄りたい。魔力を沢山使うことが予想される為、体力は出来るだけ温存しておきたかった。





 1歳を過ぎたカトリーヌ皇女は、小さな足にリボンの付いた可愛らしい靴を履き、よちよちと歩いている。

 その姿に目を細めながら、後ろをついて回るジョシュア皇子。アーシャの胸が温かいもので満たされた。


「発育も発達も問題ないございません。何かお困りのことや、ご心配なことはありますか?」

「いや、この通り。とにかく目が離せない。私も乳母も疲労困憊だ」

 アーシャはくすりと笑う。

「何でもお口に入れてしまわれる時期ですので、引き続き誤飲にはお気を付け下さい」


 ジョシュア皇子が手を広げると、小さな皇女は亡きローズ妃そっくりの愛らしいえくぼを浮かべながら飛び込んでいく。

 ひょいと抱き上げ頬ずりすると、乳母に手渡した。

「アーシャ先生、少し話をしよう」



 お茶の用意がされたテーブルを挟み向かい合うと、ジョシュア皇子は口を開く。

「結婚生活はどうだ?」

「良くして頂いております。こうして仕事も認めて下さっていますし」

「そうか。結婚式には行けなくて済まなかった」

「いえ」


 皇子は茶を一口飲むと、カップを静かに置く。

「ランドルフと私はよく似ているんだ。子供の頃から、心に闇を抱えて育ってきたから」

 身分の低い母を持ち蔑まれたジョシュア皇子と、母を兄に見殺しにされたランドルフ。互いに通ずる何かがあったのだろう。

「いつか権力を握り、憎い者に復讐する為、互いに切磋琢磨してきた。大切なことには気付かぬまま、闇だけが大きく育っていった」

 皇子はカップに映る自分を見ながら、悲しく笑う。


「私がローズ妃とカトリーヌから愛を教わった様に、ランドルフのことも貴女が変えてくれたら良いと願っている」

「私には……そんな力はありません」

 明日にでも捨てられる可能性なら充分にあるが、愛されることなどあり得ない。彼は今、目新しい玩具で遊んでいるに過ぎないのだから。

「そうだろうか。貴女にはきっと、彼の心を動かす力があるよ」

 良き父親として深みを増した皇子の笑みが、憂鬱なアーシャの心を慰めた。


「実は今、女性の参政権を認める為に動いているんだ。最初は皇族の女性からになるが」

 アーシャの顔がぱっと輝く。ミュゼットが……志を持つ素晴らしい女性達が、ついに権力を得る日が来るのだ。

「この国は女性の方が多いから、女性の視点で新しい国を築いていけたらと願っている。男性優位主義に基づく一夫多妻制も廃止する予定だ。カトリーヌや、小さな女性達が成長した頃には、男女が互いを尊重し合える国になっていたら嬉しい」


 アーシャは感動の余り言葉を失う。頬にはいつの間にか涙が伝っていた。

「貴女がローズの意思を私に伝えてくれたからだよ。どうもありがとう」

「いえ……」


 少し落ち着くと皇子は、僅かしか減っていないアーシャのカップと皿に気付く。

「口に合わなかったか?」

「いえ、近頃あまり食欲がないもので……折角用意して下さったのに申し訳ありません」

「そんなことは構わないが……そういえば顔色もあまり良くないな」

 皇子は何かを考えると、使用人を呼び、ある包みを持って来させる。


「これを持って行きなさい。滋養がつく」

 中を見てアーシャは叫ぶ。

「いけません!このような高価な物!」

 それは海のあるムジリカ国から輸入した貴重な干しアワビだった。一個で立派な馬が一頭買える程の最高級品である。

「貴女が私達家族にしてくれた恩を思えば、大したことはない。ローズも生きていたら、是非貴女にと言うだろう。粥やスープに入れて食すと良い」

 真心からの贈り物に、アーシャは震える手で包みを抱き締めた。

「……ありがとうございます」


「ランドルフとは暫く距離を置くが、何か困ったことがあればいつでも個人的に相談して欲しい。親戚を頼る様な気持ちでね」





 皇子の屋敷から貧民街へ向かい、治療を終えた頃、アーシャを異変が襲った。

 下腹部の鈍痛とめまいで立っているのもやっとの状態だ。何とか笑顔を作り子供達と別れると、馬車まで身体を引きずっていく。座位を維持することが出来ず、座席に横になった。


 残った体力を振り絞り、魔力で下腹部を診ると、子宮にうっすら血の膜が見える。

 やはり月のものね……今回は少し症状が重いわ。



 屋敷に戻りふらふらと部屋に入ると、侍女に手伝われ楽な部屋着に着替える。

 そして箱から薬草の包みを取り出すと、侍女へ言った。

「月のものが来てお腹が痛いの。申し訳ないけど、この薬草を煎じてきてくれる?水の量は……」


 部屋を出て行く侍女を見送ると、そのままベッドに横たわり、痛みを逃す様に身体を丸めた。


 次第に痛みは強さを増し、呼吸もままならない。込み上げる悪寒に手先は冷たく、額には脂汗が滲んだ。


 何かがおかしい……まさか……


 次の瞬間、アーシャのそれは確信に変わった。震える手で布団を捲ると、足の間から流れたおびただしい血で、シーツが真っ赤に染まっている。



 薬草を煎じて部屋に戻った侍女は、恐怖に悲鳴を上げそうになる。


「アーシャ様!アーシャ様!」


 赤いシーツの上、顔面蒼白で痙攣するアーシャ。意識は朦朧とし、何度呼び掛けても返事はなかった。

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