第37話 ~燃~
『お前の価値は顔と身体だけだろ』
……そうだろうか。
もはや、身体にすら価値があるとは思えない。
彼に求められるまま、従うだけが精一杯で。まだ結婚して二ヶ月も経っていないのに、こんなことでは飽きられるのも時間の問題だ。
結婚してから、彼があんなに感情的に怒るのは初めて見た。先生の話題は、機嫌を損ねやすいと解っていたのに。
……祝賀パーティに第一夫人が同伴すると聞いて、複雑な気持ちだった。先生に会いたい気持ちと、そうではない気持ちが葛藤しているから。
今の私を見たら、先生は一体どんな顔をするだろう。
私はどんな顔で先生へ向かうだろう。
それが怖かった。
揺れる馬車の中、アーシャは自分の下腹部に手をかざす。自分の身体を診るのは、こうして朝、比較的体力がある時が良い。人の身体を診る時の数倍も魔力を要し、体力の消耗も著しい為だ。
……良かった。何も見えないわ。
子宮に何も見えないことを確認すると、アーシャはほっと汗を拭う。
仕事などで極度に魔力を使う女性は、月のものが不順になりやすい。アーシャもそうであり、酷い時は数ヶ月来ないこともある。排卵が正常に行われていない可能性があり、今の身体では恐らく妊娠は難しいと思う。
だが時々不安になり、こうして自分で身体を診て確かめているのだ。
万一子供が出来たら……ましてやその子が男の子だったら。夫人達はきっと自分を良くは思わないだろう。
先生とランドルフ様の様に、一夫多妻制が生む悲劇に巻き込まれるかもしれない。
だけど、跡継ぎの母として確固たる地位を得れば、この結婚という名の不安定な契約に怯えることもなくなるかもしれない。
そうすれば、永遠にランドルフ様から先生を守れる。
そこまで考えて、アーシャは突如両手で顔を覆う。
……自分は最低な人間だ。医師のくせに、命を道具の様に軽んじた。
こんな人間の元に、神はきっと命を授けない。
『お前の価値は顔と身体だけだろ』
アーシャは腹部から手を離し、ランドルフの言葉を何度も頭の中で
今日はいつも夫人達を診察する高級住宅街ではなく、娼館などが並ぶ通りの裏にある、貧民街へ向かう。
金がなく医者にかかれない者達の為に、アーシャはこうして仕事の合間に足を運び、無償で治療を施しているのだ。
護衛兵からランドルフに報告は行っている筈だが、仕事以外の外出でも特に何も言われないことにアーシャは感謝していた。
「アーシャ先生!」
穴の空いた薄手の服を纏った子供達が集まって来る。
「おはよう、ベス。鼻水が苦しそうだから、後で診せてね。リアはお腹の調子は良くなったかしら。ルーク、お祖父ちゃんの具合はどう?」
一通り診察を終えると、来る途中で買った菓子を子供達に配り、一緒に遊ぶ。時には本を与え文字も教えていた。
こうして子供達と接することで、マリウスと繋がっていられる、何処かでそんな気もしていた。
帰りの馬車で、心地好い疲れに身を委ねながら、アーシャはポケットの小さな紙包みを出す。開いた中から、金平糖を一粒つまみ、そっと口に入れた。
『母さん!あれ見て!すごく綺麗……お星さまかなあ?』
『あれは金平糖だよ』
『こんぺいとう?』
『甘いお砂糖のお菓子』
『お星さまなのに食べられるの?素敵ね』
『買ってあげようか?』
『……ううん、いらない。お金がもったいないから』
『今日はいつもより多目にもらえたから大丈夫だよ。さあどの色にしようか?』
選んだ一番小さな瓶には、淡いピンクの星達が輝いていて。
嬉しくて嬉しくて、ぎゅっと抱き締めて歩く。
『アーシャ、食べないのかい?』
『もったいないからいいの。ずっと見ていたい』
『……お前はそればかりだね』
悲しそうに微笑む母。瓶を空けると一粒つまんで、痩せこけたその口元に持って行く。
『母さん、あーんして。お星さま、食べて』
『アーシャ……ごめん……ごめんね』
『どうしたの?お星さまいらないの?』
『うん……アーシャがお食べ。お星さまは、子供のご馳走だからね』
骨張って、カサカサして、だけど温かい母の胸。
『アーシャ……お前は優しい子だね。いい子、いい子』
眠るアーシャの頬を、涙が伝った。
「何度かお声をお掛けしてるのですが、お目覚めにならなくて」
「……魔力を使ったのか?」
「はい。今日は貧民街で大勢の治療をされていました」
ランドルフはチッと舌打ちをする。
「部屋にお連れしましょうか?」
「……いい。触るな」
車内に入りアーシャを横抱きに抱えると、すやすや眠るその顔をまじまじと見る。
知的な切れ長の目は、こうして閉じていると幼く見える。その頬に涙の跡があることに気付くと、何故か胸が苦しくなった。
馬車から降り歩き出しても一向に起きる気配はない。仕方ない……このままベッドまで運んでやるか。
そう考えていた時、ふと胸に何かを感じた。見下ろすと、細い手がギュッと自分のシャツを掴んでいる。
甘くて、切なくて……そして燃える様に熱い。
そんな複雑な感情が、ランドルフを困惑させた。
翌日──
祝賀パーティに向かう馬車の中、ランドルフは隣に座る第一夫人に意識を向ける。
ジョシュア皇子の紹介で政略結婚した彼女は、降嫁した皇女を祖母に、大臣を父に持つ家柄の娘である。
見た目もそこそこ良く、連れて歩いても恥ずかしくない。寡黙で自分の機嫌を損ねることもなく、男児ではなく女児を産んだということ以外は特に不満はなかった。
だが妊娠してからは部屋に通うこともなく、産後もこうして何か行事の時に顔を合わせるのみだ。
宮殿に着くと、ランドルフは夫人へ手を差し出す。綺麗に手入れされた柔らかい手がそれに重なるも、彼の胸には何の感情も湧かなかった。
子供の保護と治療に尽くした功績を認められ、皇帝陛下から勲章を賜るマリウス。
火傷跡の消えた顔に浮かぶ笑みが、腹立たしくて堪らない。母を見殺しにしたことも、アーシャのことも忘れて、何事もなかったかの様に新しい人生を歩む気なのだろう。
和やかに歓談が進む中、ランドルフは第一夫人を伴いマリウスへ近付いた。
「兄上」
マリウスはランドルフの隣を見て目を伏せる。
「この度はおめでとうございます」
「……ありがとう」
「アーシャを連れて来ると思いましたか?」
何も答えぬマリウスに、ランドルフの苛々が募る。
「イライザ、兄上と二人で話があるから、向こうへ言ってろ」
第一夫人を遠ざけると、再びマリウスへ向かう。
「アーシャは生意気で気に食わない。……お前に返してやろうか?」
はっと顔を上げるマリウスを、ランドルフは嘲笑う。
「冗談だよ。生意気だろうと何だろうと、アイツは俺の所有物だ。一生手放さない」
「……大切にして欲しい」
「は?」
「彼女の内面は、少女みたいに純粋で繊細だ。傷付けないで、大切に守ってやって欲しい」
「……はっ、お前が言えた義理か。自分の地位と引き換えに、アーシャを捨てたくせに」
マリウスがピクリと身体を震わせる。
「言ったよな?あれが最後の機会だって。俺を殺せなかった時点で、もうお前がアーシャに関わる権利は二度とないんだよ」
ランドルフはマリウスへ近付き小声で囁く。
「アイツ……最近では身体をよがらせて俺にねだるんだぜ。初夜でボロボロ泣いていたのが嘘みたいに」
マリウスはカッと目を見開き、ランドルフの胸ぐらを掴む。
「どうした?皆見てるぞ。俺を殴るか……それとも殺すか? アーシャがどう思うかな……自分を犠牲にしてまでお前の地位を守ったのに」
「……どういう意味だ?」
「さあ。自分で考えてみろよ」
ランドルフはマリウスの手を払い、襟を直す。
「安心しろよ。アイツが俺に従順でいる限り、今後俺はお前を害さない。……そういうことだ」
今夜はさすがに、第一夫人の部屋へ通うのだろうか。
宮殿から帰宅したらしい馬車の音を聞いてアーシャは思う。
それなら、随分これが捗るわ。
手元の編み棒をせっせと動かした。
しかし、暫く経つと、ガウン姿のランドルフが部屋に入って来た。アーシャの目が驚きに見開く。
「……お帰りなさいませ」
「何だその顔は。イライザの部屋に行くとでも思ったか」
「いえ……」
アーシャの手にある物を見て、ランドルフは尋ねる。
「何をしている」
「子供達のベストやセーターを編んでいるのです。いつも薄着で鼻を真っ赤にしているので」
アーシャは優しい顔で編みかけのベストを撫でる。
「そんな物買えばいいだろう」
「勿体ないです。数も要りますし、毛糸から編んだ方が安く済むので」
またそれか……
ランドルフはアーシャの手から編み棒を取り上げ抱き寄せる。
「夫婦の時間が無くなる方が勿体ないんだよ」
彼女をベッドへ落とすと、激しい独占欲をぶつけていく。
子供であろうと何であろうと、自分以外のものが彼女の心を占めていることが許せなかった。
深く繋がったまま、耳元へ囁く。
「マリウス……お前のことなど何も聞いてこなかった。すっかり忘れて偉そうに勲章を賜ってたぜ」
鳶色の瞳に浮かんだ喜びと哀しみが、ランドルフの胸を黒く燃やす。
その夜も彼は一晩中、たぎる熱情を彼女へ注いでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます