第36話 ~欠~


 冷たい目に見下ろされ、アーシャの顔が一瞬にして強張る。

「……申し訳ありません」


 ランドルフはアーシャの手首をがっと掴むと、そのままベッドまで引きずり放り投げた。


 細い身体を征服する様に上へ跨がると、荒々しく唇を塞ぐ。

 何度も味わい漸く離れると、苦し気に喘ぐ彼女に言い放った。

「……甘過ぎて苛々する」

 そして、乱暴にドレスに手をかけた。


「一週間分の務めを果たせ」




 隙間を埋める様に求め続け、気付けば夜も大分更けていた。

 ランドルフは汗を拭いながら、ぐったりとシーツに横たわる白い身体を見下ろす。

 指で少し背を押すだけで、それは簡単に自分の腕へ転がってくる。抱き締めると、意識があるかどうか定かではない彼女の耳へ囁いた。

「少し肉付きが良くなったな」

「……バナナのおかげかもしれません。とても美味しかったです。ありがとうございました」

 掠れた声で生真面目な返事が返ってきた為、ランドルフはふっと笑う。


「食べ方は分かったか?」

「はい……サレジア国の宮殿で、一度頂いたことがありましたので」

「気に入ったなら毎日朝食に出そう」

「いえ、もう結構です」

 ランドルフは少し身体を離し、彼女の顔を見る。

「何故だ」

「あんな高価な物、勿体ないです。私よりもお嬢様に差し上げて下さい。バナナは柔らかくて栄養価が高く、離乳食にピッタリですから」

 アーシャがそう気に留めるのは、もうすぐ生後5ヶ月になろうとしている、第一夫人との間に出来た娘のことだった。


 また “勿体ない” か……


 くしゃりと金髪を搔き上げるランドルフの手を、アーシャはつと取る。

「お怪我をされましたか?」

 先日、男を殴った時のものだろう。興奮していて加減が出来なかったせいか、こんなに拳を痛めることは初めてである。

 腫れがなかなか引かないものの、その内治るだろうと放置していた。

「……少しぶつけたんだ」

 アーシャは身体を起こすと、手をかざし、魔力で中を探る。

「甲の骨に少しひびが入っています。治すので、楽になさっていて下さいね」

 細い手から放たれる赤い光が、ランドルフの手を温かく包む。やがて光が消えると、アーシャは手に優しく触れながら、指の一本一本まで細かく確認していく。

「いかがですか?他に異常はないと思われますが」

「……余計なことを。折角太ったのに、また痩せるだろ」

 予想外の返答に、アーシャは笑う。

「この位の治療でしたら、大した魔力は使いませんよ」


 ランドルフは身体を起こすとアーシャを抱き寄せ、痛みがすっかり消えた手で、茶色い巻き毛を撫でる。

「バナナでも菓子でも……食べたければ何でも買ってやる。買ってやるから」







 ミュゼットが見ているのは、アーシャの結婚式から一週間後に届いた差出人不明の手紙。

 一枚の契約書と、それに添えられていた短い手紙で、ミュゼットは全てを理解した。



『 この契約書は先生には内密に、皇女殿下の元で保管して下さる様お願い申し上げます。


 私のせいで、先生と病院を危険にさらしてしまい申し訳ありませんでした。

 私の過去、また父の店にも、今後は一切関わらないで下さい。


 公共事業の認定が下りること、また皆様の幸せを祈っております。


 ミュゼット皇女殿下、どうか私の今までのご無礼をお許し下さい。 』



 アーシャ……


 ミュゼットは几帳面な手紙の字を愛しげに撫でる。

 自分の過去も、マリウスの過去も、全部あの細い身体に背負い持って行ってしまったのだ。


“皆様の幸せを”


 ……貴女は?

 貴女の幸せは一体どこにあるというの?


 零れた涙で、じわりとインクが滲んだ。




 昼食を手に、ミュゼットは一人テラスへ出る。


 アーシャを思い出すのが辛いのか、マリウスがここで食事をとることはなくなった。

 ひたすら仕事に没頭しては、時折抜け殻の様に何処かを見つめる。そんな日々の繰り返しだった。

 毛を伸ばすことを止めた顔には、哀しい翠色の瞳と、やつれた頬がいつも浮かんでいる。

 ミュゼットもテレサも、そんな彼に対し何も出来なかった。


 アーシャ……貴女は賢いのに馬鹿ね。

 マリウスだって、貴女なしでは幸せになれないのよ。


 ……私は一人でも待つわ。

 いつかまた、この場所で三人、サンドイッチを食べながら笑い合うの。

 ミュゼットは愛する者達へ祈りを捧げた。







 朝食の皿を見て輝く鳶色の瞳に、ランドルフは満足する。

 アーシャの表情が、ぱっと変わるこの瞬間が、彼は好きだった。


 それには食べ物が手っ取り早いと気付いた彼は、食事のメニューに力を入れる様、料理長に命じた。

 栄養価が高く、女性が好む味付け、かつ見た目も華やかな物。料理長は毎日知恵を振り絞り、渾身の一皿を提供した。

 食への興味が薄い我が主人が、夫人の食事にまで口を出すなど余程のこと。主人の心を第三夫人がどれ程占めているのかを、遠い厨房から垣間見ていた。


 生クリームの乗ったパンケーキに、苺とバナナが花の様に飾られた皿。

 その美しい形を崩さない様そっと切ると、フォークを口に運ぶ。薔薇色の頬は一層色づき、ふわりと綻んだ口元にはしなやかな手。

 ランドルフはカップを持つ手もそのままに、その表情や仕草に見入っていた。



 空になった皿が給仕によって片付けられると、ランドルフは新しい茶を飲みながら、さらっと言い放つ。

「マリウスの病院。正式に公共事業の認定が下りた。各地で新しい孤児院の建設にも取り掛かるらしい」

「……そうですか」

 甘い朝食に和らいでいたのとは違う、どこか熱を帯びた微笑みがアーシャに溢れる。


 ……面白くない。


「明日はその祝賀パーティーに参加する。皇室からの正式な招待だから、夫人を一人同伴しようと思うが……」

 下を向き、ゴクリと喉を震わせるアーシャ。


「第一夫人を連れて行く」

 何も答えないアーシャに、ランドルフは皮肉めいた口調で言う。

「……マリウスに会えると期待したか? 残念だったな」

「いえ……」

「お前の代わりに、新婚生活がどんなに順調かをアイツに話しておいてやるよ。さぞかし心配しているだろうからな。そうだな……ベッドの中で、お前がどんな風に乱れるかを教えてやろうか」

「……止めて下さい!」

 さっと曇ったアーシャの顔が、ますますランドルフの神経を逆撫でる。ガシャンと乱暴にカップを置くと、席を立ちアーシャへ近付いた。


「……お前、生意気なんだよ。第三夫人の分際で夫に逆らいやがって」

「申し訳ありません」

「お前の価値は顔と身体だけだろ。せめてもう少し悦ばせてみろよ。俺を啼かせると言ったのを忘れたのか」

「……努力致します」


 何処か遠くに意識を手放した様な、無機質な彼女の顔。

 違う……こんな顔が見たい訳じゃない。

 ただ………


 ランドルフは苛立ち紛れに彼女のカップを取り、床に投げつける。

 パリンと音を立て転がる破片と、絨毯に染みていく紅茶を、アーシャは怯えることもなく、ただぼんやりと見つめていた。

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