第35話 ~綻~
「久しぶりだな。……此処の暮らしはどうだ?」
男は何も答えず、ランドルフを睨み続ける。
「タダでこんな屋敷に住めるんだ。しかも食事と柔らかい寝床付き。お前みたいなゴロつきにとって、こんな幸運はないよな?」
「……ふざけるな」
男は立ち上がりランドルフへ飛び掛かろうとするも、足枷によって
ランドルフはしゃがみ、男に目線を合わせる。
「お前のことは、アーシャから殺してもいいと言われているんだ。だが……何かまだ使い道がある気がしてな。暫く生かしておくことにした」
「アーシャのヤツ……ふざけやがって!今まで育ててやったのに」
「実の娘に殺意を持たれるとは余程だな」
「こんな目に合うなら、子供の頃に娼館に売り飛ばしちまえば良かった!将来高く売る為に、手え出すのも我慢してたのに、恩を仇で反しやがって」
「……お前、まさか娘を手込めにしようとしていたのか」
ランドルフの声色が一段と低くなる。
「アイツは俺の所有物だ。抱こうが殴ろうが俺の勝手だろ!むしゃくしゃした時はアイツを殴るとスッキリするんだよ。アイツは魔力で化け物みたいに回復するから、何度でも殴れて便利……」
全て言い終わらないうちに、男は腹を押さえてその場にうずくまる。ランドルフにみぞおちを思いきり殴られたからだ。
そして、続けざまに顔を数発殴られ、ぐたりと横たわった。
「……性欲に耐えた過去の自分に感謝するんだな。もしアーシャが処女じゃなかったら、お前のブツを切り落としていたところだ」
ランドルフは男の髪を掴むとぐいと上を向かせ、怒りに燃える目で見下ろす。
「アーシャは俺の妻で、今や侯爵夫人だ。お前みたいな最下層の人間が、気安くアイツ呼ばわり出来る女じゃないんだよ」
ランドルフはナイフを取り出すと、手枷をずらし、男の手首に当てた。
「アーシャを殴ったのはこの手か」
男は鼻から血を流したまま、ガタガタと震え出す。
ランドルフはフッと笑うと、思い切り手を振りかざした。
ガン!!
手首すれすれの床に突き刺さるナイフ。
「あ……あっ……」
それは床から抜かれ、やっと自分の立場を飲み込めたらしい男の首に当てられる。
「……俺に忠誠心を示すかどうかで、お前の寿命を決めてやる」
最後に思いきり背中を蹴り上げられた男は、失禁したまま意識を失った。
馬車に戻り暫くすると、痛みに気付き拳を見た。
自分の血と男の血が混ざっていることに不快感を覚え、チッと舌打ちをしながらハンカチで拭う。
何故自分はあそこまで……
こんなに激しい怒りを覚えたのは、母を目の前で見殺しにされたあの日以来だろうか。
「ようこそ、アーシャ先生」
「サンドラ様、お久しぶりです」
馬車の音を聞き付け、老婦人とは思えぬ軽快な足取りで現れたサンドラは、笑顔でアーシャを抱き締めた。
「ご結婚されたんでしょう?おめでとう」
「ご存知だったんですか?」
「ええ。こんな田舎に籠っていても、案外情報網は広いのよ」
サンドラは茶目っ気たっぷりにウインクをした。
目の診察後、いつもの如くスイーツで山盛りのテーブルに二人は向かい合う。
「今日は貴女の新婚生活を聞かせてもらうのを楽しみにしていたの。でも……気を悪くされたら申し訳ないけれど、何だかとても幸せな花嫁には見えないわ」
「……どうでしょう。でも、心は楽になりました」
「リゼラ侯爵は、お仕事に理解のある方なのね。こんな田舎まで来るのを許して下さるなんて」
「結婚前に約束したんです。仕事はこれまで通り続けさせて欲しいと。今の所守って下さっています」
「あら、強い奥様だこと」
サンドラはふふっと笑う。
「それもありね。新しい結婚の形……時代の先駆けになるわ」
表向きは恋愛結婚だが、本当はただの契約に過ぎない。そんな異様な結婚を何となく察知しながらも、こうして別の角度から捉えてくれるサンドラ婦人。
アーシャの心が、ふっと軽くなった。
「あら……私ったら今頃気付いたけど、貴女はもう侯爵夫人よね。伯爵家の私より身分が高くなってしまったのに、こんな話し方でいいのかしら」
「勿論です。私は私ですから。何も変わりません」
「そうなの?私は結婚したことがないから分からないけれど……もし明日、何処かの王様に見初められて結婚しても、私は私のままで居られるかしら」
最近夢中になっているという恋愛小説を胸に抱く、愛らしい老婦人。
「はい、きっと。サンドラ様はサンドラ様のままです」
二人は笑みを交わした。
今日はアーシャが一週間ぶりに帰って来る予定だ。
用事を片付け早く屋敷に戻ろうとするも、いつもの道が祭りで通行止めになっている。
仕方がない、迂回して帰ろうと御者に命じた時、見覚えのある後ろ姿を見かけ慌てて馬車を降りる。
スラッとした背中に茶色い巻き毛、出て行った時と同じ緑色のドレス。
それは間違いなく自分の妻だった。
一軒の屋台の前で、子供達の後ろに立ち何かをじっと見ている。
やがて満足したのか、ふらりとその場を離れ祭りの喧騒の中を歩いて行った。
兵を連れていることを確認し安堵すると、ランドルフは先程までアーシャが見ていた屋台へ向かう。
何かの菓子だろうか。並べられた巨大な瓶の中には、色とりどりの小さな粒の様なものが入っている。
「これは何だ?」
「金平糖です。お子様がお喜びになりますよ」
……安っぽい菓子だな。こんなのが欲しかったのか?
ランドルフは首を傾げる。
「全種類包んでくれ」
屋敷に戻ると、自分より一時間程遅れてアーシャが帰って来た。
ランドルフは先程の包みを持って、彼女の部屋へ向かう。
「ただいま帰りました」
アーシャは帽子を取り、丁寧に礼をする。
「遅かったな」
「申し訳ありません。少し寄る所があったもので」
「さっき祭りに居ただろ」
「……見ていらしたんですか」
気まずそうな顔で、少し俯く。
「で?何か買ったのか?」
思わぬ問いに、アーシャは首を傾げる。
「いえ……何も」
ランドルフは細い手に包みを差し出す。
「……これは?」
「開けてみろ」
包みを開いたアーシャは、あっと小さく声を上げ、顔を綻ばせる。ランドルフの胸がドクリと跳ねた。
「金平糖……」
「好きなのか?それ」
「……昔、一度母に買ってもらったんです。懐かしくなってしまって。……頂いてよろしいのですか?」
「こんな物、俺が持っててどうする」
「ありがとうございます」
「何で買わなかったんだ?金は持っているだろ」
「どうしても必要な物ではなかったので。でも、こうして人に頂くとやはり嬉しいものですね」
そう言いながらまた金平糖を見て顔を綻ばせる。
「食べないのか?」
「何だか勿体なくて……見ているだけで幸せですから」
侯爵夫人のくせに、とんだ貧乏性だとランドルフはため息を吐く。
「食べずに傷んで捨てる方が勿体ないだろ」
『何だかどれも可愛くて、食べてしまうのが勿体ないわ』
『悪くなってしまったらもっと勿体ないよ』
アーシャはマリウスとのいつかのやり取りを思い出していた。
……こんな所は兄弟なのね。
「はい……では、頂きます」
どの色にしようかと迷い、淡いピンク色の粒を取ると、ゆっくり口に入れる。その瞬間、アーシャは目を丸くし、ふわっと微笑んだ。
ランドルフの胸は一層高鳴り、彼女から目が離せない。
「優しい甘さ……金平糖って、こんな味だったのね」
「……子供の頃に食べたんじゃないのか?」
「食べられなかったんです。怒った父が、川に全部投げ捨ててしまいましたから。悲しくて、一粒だけでもポケットに入れておけば良かったと、ずっと泣いていました」
まるで楽しかった記憶の様に微笑みながら話すアーシャに、ランドルフは拳を握り締める。
アーシャは指をさ迷わせ、今度は白い粒をつまむ。
「……上手いのか?」
「え?」
ランドルフはアーシャの手首を掴むと自分の口元に引き寄せ、指先の金平糖を舌で掬い取った。次の瞬間、口を押さえ、思いきり顔をしかめる。
「何だこれ……砂糖の塊か」
「甘い物はお嫌いですか?」
「身体が受け付けない」
アーシャはくすりと笑う。
「先生は甘党なのに。そこは兄弟で違うんですね」
──思わず漏れてしまった言葉に後悔するも、時既に遅く。
和やかだった部屋に、ピリッと不穏な空気が流れた。
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