第32話 ~愁~
「わあ!熊さんのどんぐりだ!」
子供がシャツの胸ポケットを指差す。夢中になっている間に、マリウスは小さな足に刺さった棘をサッと抜き、消毒をした。
「……はい、もう終わったよ。頑張ったね」
頭を撫でてやると、子供は得意気に言う。
「熊さん見てたら痛くなかった!」
「棘くらいですみません。歩く時あまりに痛がるものですから」
「いや、結構太い棘だからそれなりに痛みもあったと思うよ。消毒はしたが、もしまだ痛がる様ならおいで」
「すみません……あの、治療代を来週まで待って頂けないでしょうか?主人が身体を壊して、収入が減ってしまいまして」
「治療代は要らないよ。それよりもご主人に何か精のつく物を食べさせて。そうだ、昨日庭で野菜が沢山採れたから、よかったら帰りに孤児院の方へ寄って行くといい」
母親は何度も頭を下げ、子供と共に診察室を出て行った。
野菜以外にも、テレサはいつもパンを多めに焼いて、治療に訪れた貧しい親子に渡しているのだ。
ミュゼットやジョシュア皇子の支援で大分経営は楽になったが……公共事業の認定が下りれば、もっと貧しい国民の支えになれる。
ずっと願っていたことが現実になろうとしている今、希望に溢れる筈の彼の胸は、
──アーシャが出て行ったあの後、診察中だと聞いていたタイズ子爵邸に使いを出して尋ねるも、前日に全ての治療を終え、次は半年後の経過観察のみだと言う。
他にも治療中だと思われる貴族や皇族をミュゼットが探ってみたが、行き違いなどでなかなかその消息を掴めないでいた。
診察の足取りから、首都近辺にいることは間違いなく、少なくともこの国を出ていないことに安堵はしているが。
本当なら病院も孤児院も何もかも放り出して、アーシャを探しに行きたい。だが公共事業案が出ている今、それは特に難しかった。
子供達やスタッフへの責任、そして認定に向けて奮闘してくれているジョシュア皇子の好意も裏切り、無下にしてしまう。
「先生、午前の外来は今の患者さんで終了です」
「ありがとう。じゃあお昼にしよう」
マリウスはどんぐりの熊を愛しげに撫で、テラスへ向かった。
今日はポテトサラダのサンドイッチか……アーシャが好きだったな。
皇子の婚約者だっただけあって、食べ方も綺麗で品のあった彼女。だが、これを口に入れた時は、薔薇色の頬を丸く膨らませたまま目を輝かせていた。
いつも美味しい美味しいと食べていたテレサの料理。また食べさせてやりたい……
『此処の皆は家族みたいだった。テレサさんはお母さん……』
あの時、自分のことを兄だと言ったアーシャ。本当は何と呼んで欲しかったのか……
「これ、アーシャが大好きだったわね。いつも
ミュゼットが手元のサンドイッチを見ながら呟く。
「あの子、ちゃんと食事しているかしら。すぐに無理して痩せてしまうから」
紫の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「変だと思ったの。変だと思っていたのに……もっとちゃんと向き合えば良かった。この間帰って来た時、アーシャったらずーっと笑っているの。笑っているのに、心は泣いているみたいだった」
わっと顔を伏せ、肩を震わせるミュゼット。
「あんなに綺麗なハンカチ……何も、何も要らないのに。アーシャだけ帰って来てくれたらそれでいいのに……」
そうだな……本当にそうだな……
「……君はやはりお姉さんだな」
午後の診察時間が来るまで、マリウスはミュゼットの背を撫で続けた。
診察室へ戻ると、テレサが封筒の束を持ってやって来た。
「本日のお手紙です」
公共事業案が出てから手紙の量が増えた為、毎回目を通すのも一苦労だ。
さて、今日はどれから……
白い上質な紙の封筒が目に止まり手に取るも、差出人の名を見てマリウスは警戒する。
ランドルフ……
それは何かの招待状だった。封を開けて目を通すとポイと机に投げる。
結婚式の招待状……第三夫人を迎えるのか。どうせまた政略結婚だろう。
正直、今はランドルフの結婚などどうでも良かった。アーシャのこと、公共事業案のこと、考えなければいけないことが沢山ある。だが兄である自分が出席しない訳にはいかない。
……一ヶ月後か。随分急だな。
間もなくその日はやって来た。招待状を手に、ハミルトン家本邸へ向かうマリウスとミュゼット。
到着すると、マリウスは目の前にそびえ立つ屋敷を見上げる。
自分が産まれ、母が亡くなった後の一時期を除き成人までを過ごした実家。だが不思議と何の郷愁も感じず、見知らぬ他人の家の様な気がするだけだ。
周りを見渡せば、大勢の招待客達が馬車を降り、会釈を交わしている。
第三夫人の結婚式にしてはやけに派手だな。第二夫人でもここまでではなかった。
……余程の有力貴族の娘か?
広間に入ると、花婿の正装をしたランドルフと、第一夫人、第二夫人が並んで招待客へ挨拶をしている。
新たな妻を迎える夫の為にこうして立つなど、何度見ても奇妙な光景だとマリウスは思う。夫人らの胸中はいかがなものだろうか。
「兄上!」
ランドルフは満面の笑みでマリウスの手を取る。
「よく来て下さいましたね。先日はちょっとした喧嘩をしてしまいましたので……心配していたのですよ。今日はどうしても来て頂きたかったので」
じろじろとマリウスの顔を見るも、それについては特に何も触れない。
「……おめでとう。第三夫人となる人は、お前にとって特別な女性らしいな」
「ええ、それはもう。絶世の美女です。……女性にご興味のない兄上も、きっと驚かれる程にね。
それに第三夫人“となる”ではなく、もう正式な妻なのです。待ちきれずに、二人きりで先に神殿に届を出してしまいましたから。今日は実質、披露宴だけです」
マリウスは驚く。
敷地内に神殿を持たない屋敷には、神官が直接赴き、式と披露宴を同時に執り行うのが通常だからだ。
「……まあ楽しみになさっていて下さい。では後ほど」
含みのある言い方が引っ掛かるも、既に次の客の対応へ移っているランドルフ。
マリウスの胸を何かがざわざわと
招待客が揃うと、ランドルフは一旦広間を離れる。やがて花嫁衣裳に身を包んだ女性の手を取り、再び広間に現れた。
純白に金糸が輝く美しいドレス。豪奢過ぎて一見重たいが、身長が高くスタイルの良い花嫁が、それを見事に着こなしている。
どよめく客とは真逆に、マリウスの胸でそれは一層蠢いた。
まさか……まさか……そんな筈はない。
ランドルフは明らかに血の気が失せていく兄を見て、残酷にほくそ笑む。
「皆様、本日はお集まり頂きまして誠に感謝致します。ハミルトン家の第三夫人である、私の妻をご紹介致します」
ランドルフの手によっておもむろに上げられたベールの中から現れたのは、まさしく美人画から抜け出た様な花嫁。
おおっと、ドレスを見た時よりも大きなどよめきが広間に響く。
品良く結い上げられた茶色の巻き毛。
白い肌に薔薇色の頬。
艶やかな赤い唇。
そして……鳶色の美しい瞳。
胸の蠢きが、声にならない叫びとなってマリウスの喉に込み上げる。
…………アーシャ!!
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