第31話 ~対~
マリウスは机に近付くと、それを手に取った。
純金の上でゆらりと輝くレッドダイヤモンド。
アーシャの鳶色の瞳が泣いている様に見え、ドクリと胸騒ぎがする。
外へ飛び出し、門番へ問う。
「アーシャは此処を出たか!?」
「はい。明け方日の昇らない内に」
自分の居た痕跡を全て消す様に出て行ったアーシャ。
まさか、二度と此処には帰らないつもりで……
くしゃりと顔に掛かる毛を掴んだ時、マリウスはその違和感に気付いた。
急ぎ鏡の前へ飛んでいき、前髪を上げ、髭を全て剃る。
「アーシャ……」
滑り落ちる剃刀。
現れた自分の顔に翠色の瞳を歪め、その場に崩れ落ちた。
ランドルフが指定した期日の一日前、アーシャはある屋敷へ向かった。
「アーシャ・ミラーが来たとお伝え下さい」
門番が屋敷へ入り間もなく、
「……どういうつもりだ」
「一週間と待たずにお返事を差し上げたかったので、直接本邸へ参りました」
「今日は忙しい。明日メモに書いた屋敷へ来い」
「……お母様のご実家を
屋敷へ戻りかけたランドルフの足がピタリと止まる。
「この国に私の身分がないのをいいことに、元々お母様のご実家であったお屋敷で、愛人として囲う気だったのでしょう?
お母様を見殺しにしたマリウス先生への復讐の為、お母様を想いながら私を抱き潰すおつもりでいらっしゃいましたか?」
振り向いたランドルフの目が、図星であることを語っていた。アーシャは続ける。
「本邸ではなく、何故あの屋敷を指定されたのか気になりましたので、勝手に調べさせて頂きました。ご容赦を」
「……つまり、お前の返事は俺に従う気がないということだな。マリウスを見捨てると」
「そのようなこと、一言も申しておりません。私は愛人ではなく、正式に貴方の妻にしてして頂きたいのです」
「何だと?」
「“アーシャ・ミラー”の名を神殿に記し、この国での身分を私に下さい。リゼラ侯爵、そしてハミルトン家の第三夫人として」
「馬鹿かお前は。犯罪者を妻になどする訳がないだろう。……ああ、それが狙いか。正式に婚姻を結ぶことで、俺を道連れにしようと」
ランドルフは冷めた目でアーシャに詰め寄る。
「思い上がりもいい加減にしろ。俺はお前の身体と引換えに、親切に交換条件を出してやったに過ぎないんだぜ。マリウスを潰すだけなら、本来お前など必要ない。今すぐにでも陛下にお前の調査書を渡して、アイツの地位を奪ってやる」
突如ふふっと笑い出すアーシャに、ランドルフは眉をしかめる。
「……何が可笑しい」
「こちらも交換条件なしにこんな提案をする訳ないでしょう。私は、貴方が父の悪事を隠蔽した証拠を握っているわ。問題よね……子供を働かせる違法な娼館を、裏で支えていたのがリゼラ侯爵様だなんて」
今度はランドルフが嘲笑う。
「はっ、脅しのつもりか。証拠……?そんなものある訳ないだろ。本当にあるなら言ってみろよ」
「こちらの手の内を見せる訳がないでしょう。私と結婚して下さらなければ、皇帝陛下に渡します」
鳶色の瞳は、揺らぐことなくランドルフを見据える。ランドルフは更に眉間の皺を深めると、どす黒い顔でアーシャへにじり寄った。
「お前……やはり思い上がっているようだな。今此処でお前を殺すことも出来るんだぞ」
アーシャの首に手を掛けた瞬間、ざっと兵が数人飛び出し二人を囲んだ。
「出来るものならどうぞ」
挑発的なアーシャに、ランドルフは兵を見回し考える。
皇室の……ミュゼットの兵ではないな。
「私個人がお金で雇った兵です」
ランドルフの心を読み、アーシャは答えた。
「私には身分はありませんが、仕事で得た信用とお金はあります。この腕一本で、皇族や貴族の方々と繋がっているのです。そう簡単には殺せませんよ」
「ふっ……ふふふ……はははは!」
顔を歪めて腹を抱えるランドルフ。ひとしきり笑い、落ち着いた後口を開いた。
「お前……やはりただの女じゃないな。で?結婚してやったら、お前は俺に何を寄越す?」
「……この身体を。まだ誰も触れていない
「……お前の身体にそれだけの価値があると?」
「ええ、勿論。殿方の手腕次第でしょうけど。貴方程の
「へえ……それは面白いな」
アーシャの全身を見て、ニヤリと笑うランドルフ。
「納得頂けましたら、こちらの契約書にサインを下さい」
アーシャは用箋挟に挟んだ一枚の紙と、ペンをランドルフへ差し出す。
「はっ!契約書まで作ったのか。用意周到だな」
「口約束程アテにならないものはありませんから。契約成立後は、不履行とならない様に、然るべき場所で保管させて頂きます。
内容は先程お話した通り……私と婚姻を結び正式な夫婦となることで、互いを保障すること。貴方はマリウス先生を害さない、私は貴方を害さない。
それに付随する細かい契約事項がありますから、よく目を通して下さい」
ランドルフは契約書を受け取り目を通す。
「……今まで通り仕事をさせろだと?」
「ええ。この国の婚姻に関する法律を調べた所、“妻が夫の許可、または同伴なしに、実家以外の場所へ24時間以上滞在することは禁止”と定められていました。ですが、仕事の自由を認めて下さらないと、貴方への風当たりが強くなりそうですから」
「どういう意味だ」
「私はジョシュア殿下の第一子、カトリーヌ皇女殿下の主治医です。他にも降嫁された皇女殿下やお妃方など、沢山の貴族や皇族を診ています。中にはとても一日では戻って来られない遠方へお住まいの方も。
法律上、夫である貴方が行くなとおっしゃれば行けませんが、治療中の高貴な方々がどう思われるか」
「だから自由に仕事させろと?」
「その方が貴方にとってもメリットがありますよ。妻が良い仕事をすることで、貴方の評価も上がるでしょう」
ランドルフは再び笑い出す。
「……良いだろう。お前は寝所以外でも役に立ちそうだ。だが、決して妻の役目も忘れるな。お前の身体は俺のものだ」
「承知致しました」
「あとは……父親と手を切れと?」
「はい。もう父とは関わりたくないのです。……あの男は一度甘い汁を吸ったら、ハイエナみたいにたかってきますよ。貴方も用済みなら早く手を切った方が身の為です」
「確かにもう用はないな……殺しても構わないと?」
「どうぞお好きに。私にとって、あの男は害でしかありませんから」
「仮にも血を分けた肉親だろうに。恐ろしい女だな」
「貴方もそうでしょう?実の兄を殺したい程憎んでるくせに」
「……ふっ、それもそうだな」
ランドルフは暫し何かを考えると、静かに口を開く。
「分かった。頃合いを見てヤツは処分しよう。殺すかどうかは俺の気分次第だかな」
「お願いします。……念の為ご忠告しますが、父を殺しても、貴方が隠蔽に加担した証拠は消えませんからね」
「抜かりないな」
笑いながらサラサラと契約書にサインし、捺印するランドルフ。
「受け取れ」
差し出された契約書に、アーシャの顔が一瞬……本当に一瞬、ほっと緩んだのをランドルフは見逃さなかった。
契約書を持つ手とは反対の手でアーシャの腰を引き寄せると、赤い唇に口付ける。簡単に唇を割ると、舌を滑り込ませ貪り尽くす様に味わい、契約書と共に突き放した。
突然のことに怯えた顔でよろめくアーシャ。ランドルフは満足気な顔でこう言った。
「確かに
……弱い所を見せてはいけない。
アーシャはすっと背筋を伸ばし微笑む。
「あまりに情熱的なご挨拶でしたので、驚いてしまいました。契約成立の証と考えてよろしいですね?」
「ああ、何なら屋敷で休んで行っても構わないが」
卑猥な
「契約書をよくお読み頂きましたか?この契約は神殿への届出と結婚式を以て、その効力が発生します。私の身体が欲しければ、盛大な挙式を準備してお待ち下さい」
馬車に乗ると、アーシャは座席に凭れ掛かる。
何とか契約出来たわ……
本当はランドルフが父の悪事を隠蔽した証拠なんて何も掴んでないのに。上手く騙せたのかしら……上手く結婚まで漕ぎ着けると良いのだけれど。
アーシャは契約書に目を落とす。
戸籍制度をとるサレジア国とは異なり、ヘイル国は出生時に神殿で名を記すだけで身分を得る。また外国人は、ヘイル国の国民と結婚や養子縁組をし、神殿へ届け出ることでそれが可能になる。
サレジア国の様に面倒な手続きは要らない、非常にシンプルな制度だが……この届出が無効になる、ある法律が存在する。
それはこの契約の保険となり得る物だ。
ランドルフがそれを知れば、都合が悪くなった時に、いつでも自分を切り捨てることが出来る。或いは、知っている上で契約を結んだのだろうか。
……先生を守る為、何とか彼を懐柔し、捨てられない様にしなければ。
ごしごしと唇を拭うアーシャの頬には涙が伝っていた。
ランドルフは一人、グラスを傾けながら、契約書の控えに目を通す。
あの女……本当に証拠なんて握っているのか。ただのハッタリかもしれない。
それでも不確かな交渉に乗ったのは、あの女自身に興味が湧いたから。
……女なんて自分の意思を持たない、或いは身を飾ることにしか興味のない人形だと思っていた。政治の道具にし、性欲を満たせればそれでいいと。
あの女を愛人にして抱き潰し、ボロボロに壊れたら捨ててやろうと思った。
医師としての地位を失い、好きな女も汚されたアイツの顔を見てやりたかったのに。
『貴方程の
……面白いな。俺なしでは生きていけない身体にしてやる。
万一都合が悪くなれば、あの法律に沿って届出を無効にし、他人に戻れば良いだけの話だ。
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