第30話 ~家~
「今夜だけ……今夜だけでいいから」
思考が回らない。ただ彼女の冷たい身体を温めようと、本能的に背中に手を伸ばす。
寸での所で我に返ると、それを宙に止め、自分を戒める様に固く目を閉じる。
そして細い肩を浅く掴み、静かに引き離した。
「先生……」
哀しい鳶色の瞳に胸が痛むも、視線を反らす。
「身体が冷えているな。おいで」
マリウスは自分のベッドにアーシャを寝かせ、温かい毛布を掛ける。額に手をかざした後、そっと口を開いた。
「……風邪ではないようだね。疲れが出ているのかもしれない。生姜湯を作って来るから、少し待ってて」
アーシャは毛布の中から手を伸ばし、立ち上がろうとするマリウスの袖をギュッと掴んだ。
「いらない……何もいらない。ずっと此処に居て」
それは普段の彼女とは違う、幼子の様な頼りない声。マリウスはアーシャの手を握ると、再び床に腰を下ろした。
「……分かったよ。ずっと此処にいるから、安心して眠りなさい」
「ありがとう……」
だがアーシャは目を薄く開けたまま、厚い毛布の上からでも分かる程小刻みに震え続けている。
毛布をもう一枚足すか……マリウスが立ち上がろうとした時、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「い……に……るのが、嫌だった」
「ん?」
アーシャへ耳を寄せる。
「家に帰るのが嫌だった……子供の頃」
声とは反対に強い力が、繋いだ手に込められる。
「母さんと弟と……毎日繕い物の仕事をもらいに、町を歩き回るの。仕事がない時は本当にお金がなくて……土手でよく食べられる野草を探したわ。手ぶらで帰ると父さんに殴られるから、出来るだけ皆で時間をかけてゆっくり摘むの」
突如語り出したアーシャの幼少期。過去を見る遠い目を、マリウスは覗き込んだ。
「お金をもらえた日は、家に帰る前に母さんがパンを買って私達に食べさせてくれた。帰ったら、父の酒代に取り上げられてしまうから。……母さんは骨が浮き出る程痩せていて。パンをあげたいのに、いつも首を振るの。母さんはお腹空いてないから、あなた達が食べなさいって」
侯爵家の令息であるマリウス。第一夫人には苦しめられたが、衣食住や教育環境には恵まれていた。
孤児を此処に迎えるに当たって、様々な家庭環境を見ては驚愕したが、アーシャの幼少期も彼の想像を絶するものだった。
「此処には……此処にはいつも帰りたくて……本当の家って、こんな感じかなって思った」
「家か……」
微笑むマリウスに、アーシャは頷く。
「此処の皆は家族みたいだった。テレサさんはお母さん、子供達は可愛い弟や妹。ミュゼットは……お姉さんかもしれない」
「えっ!?妹じゃないのか?」
「うん、お姉さん」
「それは意外だな」
二人はくすくすと笑う。
「あと……先生は……」
言葉に詰まり、揺れる鳶色の瞳。時が止まった様に、互いを見つめ合う。長い時間に感じられたその後、彼女の口から出た言葉に、マリウスはほっとした。
「……お兄さんかな」
「兄さんか……良かった。お父さんて言われたら、どうしようかと思ったよ」
マリウスは笑顔を作りながら何とか答える。
そっと閉じた彼女の瞳から、涙が零れ頬を伝う。
この涙を拭ったら最後、自分は後には戻れない。瞳から頬、頬から唇、そして唇から……
きっと身勝手に、自分の欲望をぶつけてしまう。
マリウスはアーシャの見えない所で、手を必死に固く握り耐えていた。
「先生……マリウス先生、私を此処へ連れて来てくれてありがとう」
「何を言うんだ。こちらこそありがとう。それに、家族“みたい”じゃなくて、本当に家族なんだよ。皆、君を愛している」
「先生も?」
そう問うアーシャの顔はあまりに純粋で。愛という言葉を覚えたばかりの子供の様だった。
「……ああ、君を大切に想っているよ」
大切に……
もう、それだけで充分だ。
「少し……眠くなってきました」
いつの間にかアーシャの震えは治まり、頬に赤みが差している。
「話していたら温まったかな。ゆっくりお休み」
「先生、ずっと此処に居てね。私が眠っても、どこにも行かないでね」
「どこにも行かないよ……ずっと……居るから……」
ふわりとあどけない顔で笑うアーシャ。この笑顔を、後に激しい後悔と共に思い出すことになるとは知らずに──
マリウスの瞼が徐々に重くなり、意識が遠退いていく。
アーシャは繋いだ手から、彼へ強い魔力を送り続けた。
月が照らす夜空の下、小さな女の子が泣いている。
「どうしたの?」
涙に濡れた鳶色の瞳、痩せた顔に掛かる茶色の巻き毛。
ああ、この子は子供の頃のアーシャだ。
「お家に帰りたくないの……母さんも居ないし、怖いわ。お腹も空いて動けない」
「じゃあ、俺と一緒に帰ろう」
「どこへ?」
「お家。みんな君を待っているよ」
小さな手を取り、涙を拭ってやる。
「どうして私を連れて行ってくれるの?」
「……君を愛しているからだよ。とても……とても。幸せにしたいんだ」
次第に辺りは暗くなり、空を見上げれば丸い月が徐々に欠けていく。
繋いでいたあの小さな手はいつの間にか消え、遠くにぼんやりと愛しい姿があった。
「アーシャ!」
手も足も動かせず、近付くことが出来ない。
「先生……私は、先生と一緒には帰れません」
「……何故?君の家だろう」
アーシャは哀しい顔で首を振る。
「幸せになってはいけないの」
細い背中が霧の中へ消えていく。
「……アーシャ、行くな!アーシャ!!」
「……はっ!」
自分の荒い息に飛び起きる。その瞬間、激しい頭痛と背中の痛みに襲われた。
……床で眠ってしまったのか。
肩からハラリと落ちる毛布。カーテンの隙間からは眩しい朝日が差し、鳥のさえずりが合唱をしている。入院患者の急変に備えいつも仮眠程度で、朝になるまで熟睡することなど今までなかったのに。
ズキズキと痛む頭……もしかして……催眠魔術か?かなり強力な……
頭の霧がパッと晴れ、ベッドを見るも誰も居ない。
アーシャ!
部屋の外へ出ると、丁度看護師がマリウスを呼びに来た所だった。
「先生、朝の回診のお時間ですが……」
それには答えず、一目散にアーシャの部屋へ向かいドアを叩く。
「アーシャ!アーシャ、居るか!?」
ドアを開ければ、そこにはがらんと空虚な室内が広がっていた。ベッドは綺麗に整えられ、クローゼットも空っぽで。
ただ一つ……ミュゼットが贈った髪飾りだけが、机の上で哀しく光っていた。
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