第29話 ~贈~


 その夜、宿で一人、アーシャは考える。

 ……父の時と同じだ。恐怖心に負けて、冷静さを欠いてはいけない。


 守るべきはマリウスの地位と、あの病院。非常にシンプルなのだから。

 ランドルフの口車に一方的に乗せられてはいけない。

 今後二度とマリウスを脅かさない様な、確実な契約に持ち込まなければ。


 アーシャは購入したばかりの、ヘイル国の法律の本を開く。

 そして紙とペンを取り出し、ある物を作成していった。



 これは罰ね……きっと。

 あの病院で沢山の愛に触れ、生への執着どころか、いつの間にか幸福になりたいとまで思う様になっていた。

 もっと早くに去るべきだったのに……ずっと蓋をして、見ないふりをしてきた。

 そんな卑怯な私への罰が、今下っただけ。






 ランドルフに返事をする期限は僅か一週間後だというのに、次の診察予定は偶然マリウスの病院近くの屋敷だった。

 神からのプレゼントだろうか……こんな私でも憐れに思い、別れの時間を用意して下さったのだ。


 アーシャは大きな買い物袋を抱えると、馬車に乗り愛すべき場所へと向かう。




 連絡もなしに突然帰って来たアーシャに、マリウスが飛んで来る。

「アーシャ!何故……何故この間は何も言わずに出て行ったんだ!どれだけ心配したか」

「すみません……急に遠方での診察を思い出して。置き手紙はしましたが」

「あれから全然連絡もなかったじゃないか。兵も連れずに……何かあったのかと」

「いいえ……元気でしたよ、とても」

 にこりと笑うアーシャに手を伸ばしかけるも、マリウスはやはり、それを静かに下ろした。

「近くのタイズ子爵邸で診察があったので、一晩こちらへお世話になります。今日は皆にお土産もあるんですよ。ちょっと孤児院へ顔を出して来ますね」

 歩き出す彼女の細い腕からサッと袋を取り上げると、マリウスはぽつりと呟く。

「……君が帰って来てくれることが、何よりの土産だというのに」


 ……優しい。この人は本当に優しい。優しくて温かくて、そしてとても繊細で。

 けれど、大切なものを守る為なら、その大きな身体を震わせて盾になるのだ。


 ミュゼットの為、鋭い目でこちらへ向かって来た最初の出会いを思い出す。

 あの時から……もう彼を愛していたのかもしれない。




「うわあ……きれい」

 30色入りの色鉛筆のセットに目を輝かせるルカ。

「素敵な絵を沢山描いてね」

「ありがとう」


「先生……本当にこれ、私がもらっていいの?」

 美しいオパールのブローチを手にキヤが言う。

「ええ。貴女によく似合うわ。大人になっても使えるから」

「……先生、上手く結べません」

 紺のアスコットタイを襟にかけ、アーシャの前へ立つトーマ。結んでやると、嬉しそうに頬を赤らめた。


 他の子供達もそれぞれアーシャの土産に興奮しているが、ミュゼットだけはそれをいぶかしげな顔で見ている。

「はい、これはミュゼットのよ。どうぞ」

「……何故突然お土産を?」

「治療の謝礼を沢山頂いたの。雑貨屋さんをフラフラしていたら、皆に買いたくなってしまって」

「本当に?」

「何故こんなことで嘘をつくのよ。折角貴女の為に選んだんだから開けてみて。ね……お願い」

 渋々包みを開けたミュゼットだが、中から現れた品にパッと目を輝かせる。

「綺麗……水色ね」

 それはブルースターの花を思わせる、清らかで美しい色のハンカチーフだった。貴重な金糸で愛らしい花の刺繍もされている。

「ええ。これを見た瞬間、ミュゼットにと思ったの。以前貴女にもらった髪飾りに釣り合う物ではないけれど……」

「いいえ……ありがとう、アーシャ。大切にするわ」







 テレサの温かい夕飯を噛み締める様に食べ、早めに床に就くアーシャ。

 眠れずに何度も寝返りを打っては枕に顔を埋めるも、意識は冴え、夜は深さを増していくだけ。

 ガタガタと風が窓を揺らす音に、ビクリと起き上がる。次第に言い様のない恐怖が込み上げ、身体中を震えが襲う。


 怖い……怖い……覚悟を決めた筈なのに。

 どんな悪夢よりも、今は現実が怖い。


 腕に力を入れ自分を抱き締めるも、震えは治まるどころか激しくなる。

 気付けばベッドから飛び降り、ひたひたと廊下を歩いていた。




 夜の回診を終え、自室でアーシャから贈られた一冊の本を開くマリウス。

 それは光の魔術で描かれたリアルな空の画集で、虹の掛かる青空や夕焼けなど、まるで本当に見上げているかの様な迫力だ。

 中でも一番目を引くのは、丸い月が浮かぶ美しい夜空。


『先生へのお土産は一番悩みました』


 たった一言、そう言ってこれを手渡したアーシャ。彼女の想いが、このページに全て溢れていた。

 指で愛おしげに月の輪郭をなぞっていると、突如、小さなノックが響く。


 こんな時間に……看護師か? 子供に何かあったか。


 ランプを手にそっとドアを開けると、そこには白い顔のアーシャが立っていた。

「アーシャ、どうしたんだ。具合でも悪いのか?」

「先生……寒くて、冷たくて……眠れないんです」

「とりあえず中に……」

 部屋に滑り込み後ろ手にドアを閉めると同時に、アーシャはマリウスへ抱き付いた。


「……アーシャ」

「今夜だけ……先生の傍で眠らせて」


 冷えきった細い身体は、マリウスの胸の中、ガタガタと震えていた。

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