第27話 ~離~
「この病院と孤児院が、国から資金援助を受けられることになったの!」
「国から?」
「そう!やっと公共事業として認められることになったのよ。ほら、見て!」
ミュゼットが握りしめていた手紙は、その旨が記された皇室からの正式な文書だった。
「今までどんなに申請しても認められなかったのに……どうやらジョシュアお兄様が動いて下さったみたい」
……皇子殿下が!
「それだけじゃないの。孤児院を新たに幾つか設立する案も出して下さっているみたいで、マリウスの助言が欲しいって。他にも……ああ、色々と忙しくなりそうよ」
興奮冷めやらぬミュゼットは、アーシャをひとしきり抱き締めた後ふと尋ねた。
「アーシャ……貴女、お兄様にどんな魔法をかけたの?」
「……私は何もしていないわ」
アーシャの胸には、ローズ妃の優しい笑顔が浮かんでいた。
「アーシャ」
いつの間にかマリウスが立っていた。
「……ただいま帰りました」
アーシャはなるべく彼の顔を見ない様に、頭を下げる。
「もう、帰って来てくれないんじゃないかと思ったよ」
「すみません……お待ちの患者さんが沢山いらっしゃいましたので、あちこち回っていたら遅くなってしまいました」
「君は、此処へ帰って来る時にはいつも痩せてしまっているね」
「……はい。お腹が空くと、帰りたくなるのです」
そっと見上げたマリウスの顔には、下ろした髪と伸び始めた髭。それはまるで、彼の感情を覆い隠しているかの様だった。
マリウスはアーシャの痩せた頬に手を伸ばしかけるも、すっと下ろして言う。
「……早速テレサがおやつを用意しているよ。みんなで食べよう」
そしてアーシャの手から荷物を奪うと、背中を向け、さっさと歩いて行ってしまった。
久しぶりに帰宅したアーシャに対してとは思えぬ素っ気なさに、ミュゼットは首を傾げる。
チラリとアーシャを覗き見るも、特に気にしていない様子だ。
……二人の間に、何かあったのかしら。
テラスのテーブルには、温かいお茶とテレサお手製の菓子が並ぶ。
肌寒いヘイル国の中でも特に冷え込む時期を抜け、こうしてまた外でも過ごしやすくなっていた。
マリウスはせっせと皿に菓子を盛ると、アーシャへ渡す。その山の様な量を見て、アーシャはくすりと笑う。
「先生、こんなに食べられません」
「栄養を補給しに帰って来たんだろう?このくらいは食べないと」
朗らかに微笑むマリウスに、アーシャはほっとする。
良かった……今までどおりの先生だ。
あの時は、人の死を目の当たりにして、人恋しくなっただけ。
……きっと、それだけ。
自分に言い聞かせながら菓子を齧るアーシャに、ミュゼットが口を開く。
「……あのね、アーシャ。良いニュースだけじゃなくて、悪いニュースもあるの」
ミュゼットの真剣な顔に、アーシャは菓子を置いて向き合う。
「子供に客を取らせた首都の違法な娼館は、全て摘発して、営業禁止処分と重い刑罰を与えたわ。子供達もジョシュアお兄様が一時保護の手続きを進めて下さっているから安心よ。ただ……肝心のあの男の店は処分出来なかったの」
「……何故?」
「子供達を働かせた証拠が、綺麗に揉み消されていたの。何か裏で大きな力が働いているみたい」
大きな力……
「色々探っているんだけど分からないの。見張りの兵もずっと付けていたんだけど、特に変わった様子もなかったみたいで。だけど皇族か貴族……何かしらの権力が背後にあるのは間違いないわ」
アーシャは顎に手を当て考える。何故父の店だけ……背後に権力があるとして、その目的は?
「ごめんなさいね。もう少し調べて、必ずあの男を罰するから」
眉を下げるミュゼットに、アーシャは首を振る。
「ありがとう……ミュゼット。本当にありがとう。でも今はこの病院と孤児院のことを一番に考えて。ヘイル国の子供達の未来がかかっているんだもの」
「アーシャ」
「父に対する恐怖心はきっと一生消えることはないけど……今の私は、もう小さな子供じゃないわ」
アーシャはにこりと笑うと、ミュゼットの手を握る。
「もうこの間みたいな情けない自分は嫌なの。自分の身は自分で守りたいわ。誰にも頼らず生きていける様に……強く在りたい」
「そんなの無理よ!」
ミュゼットはアーシャをぐっと抱き寄せる。
「誰にも頼らないなんて無理。人は独りで生きていける程強く出来ていないの。甘えたり、迷惑をかけ合うのが当然なのよ」
「ミュゼット……」
「私だって今、アーシャに甘えたい気分だわ。すごく」
すりすりと頬を寄せるミュゼットの金髪を、アーシャは優しく撫でた。
その夜、風呂上がりの火照った身体を冷ます為、アーシャはテラスへ出た。
空にはいつかと同じ、丸い月が浮かんでいる。
「アーシャ」
振り向けばマリウスが立っている。
「丁度回診が終わって……君がテラスへ出るのが見えたから。少し、二人で話がしたい」
マリウスはアーシャに近付き、前へ立つと、突然すっと頭を下げた。
「この間は済まなかった」
「……先生?」
「女性に失礼なことを……なんと詫びていいのか分からない」
あの日の熱が甦り、唇がじんと熱くなる。だが、次に彼の口から出た言葉は……
「忘れて欲しい」
アーシャの胸を鋭く刺す。
「どうか……忘れて欲しい」
一層深く頭を下げ、動かないマリウス。
逞しい身体を縮こめる哀れな彼を救う為、アーシャはふふっと声を上げて笑った。
「アーシャ……」
「先生って、本当に真面目なんですね。あんなの挨拶の様なものじゃないですか」
ひとしきり笑ってみせると、マリウスの腕に手を置く。
「ねえ、先生。以前お話したと思いますが……私はサレジア国の皇子の婚約者だったんですよ。宮殿内の屋敷で、結婚までの期間を彼と共に過ごしていました。一つ屋根の下……二人で」
つうっと滑らせた細い手は、彼の肩に辿り着く。
「後は先生のご想像にお任せします」
やがてアーシャの指は、金の髭がかかる彼の柔らかい唇に触れた。
「あんな触れるだけのキス、今先生に言われる迄忘れていました。ですから、先生こそお気になさらないで下さい」
アーシャは指を下ろすと、自分の腕を擦りながら大袈裟に震えてみせる。
「折角お風呂を頂いたのに、身体が冷えてしまいました。もう休みますね。……では」
黙ったままのマリウスを背に、アーシャは逃げる様にテラスを出た。
一人残されたマリウスは、くしゃりと髪の毛を掻き上げる。
唇に燻るのは、彼女の熱い指と石鹸の香り。
行き場のない想いを胸に見上げれば、雲に紛れたおぼろげな月が、ぼんやりと空を照らしていた。
翌朝空が白み始めた頃、荷物をまとめたアーシャは病院を出る。
孤児院の方からパシャパシャと水音が聞こえそちらを見れば、子供達が井戸の水を桶に入れていた。
「アーシャ先生!」
アーシャの視線に気付いたルカが、真っ先に飛んで来る。
「おはようルカ。お洗濯?随分早いわね」
「今日はみんなで森へハイキングに行く予定なんです。だから早めに」
後から来たキヤが、ルカに代わって答えた。
「そうなの。とても素敵ね」
「先生はどこへ行くの?」
「患者さんのところ。遠くのお屋敷だから、もう出発しないと」
「ええっ、昨日帰って来たばかりなのに」
しゅんとする子供達が愛おしい。
「大丈夫。アーシャ先生はまた帰って来てくれるよ」
ルカが微笑みながら言う。
「ここはお家だもん。ね、先生」
「ええ……そうね。ありがとう、ルカ」
海の様な瞳から目を反らし、小さな身体を抱き締めた。
子供達と別れ門まで歩くと、振り返るアーシャ。
自分が初めてこの門をくぐった時と、此処は大きく変わった。
病院にも孤児院にもスタッフが増え、あの忙しなさが嘘の様に穏やかだ。
親から受けた虐待と目の病気で自分の殻にこもっていたルカは、無事に退院し、孤児院の子供達と元気に暮らしている。
そしてマリウスとミュゼットは、これから新しいヘイル国を造る為、改革に携わっていくだろう。
次に此処へ帰るのはいつになるだろうか。
数ヶ月……半年……一年と。間隔が空くにつれて、皆、自分のことなど忘れていくかもしれない。
アーシャは一人、兵も馬車も使わず、朝靄に霞む道を歩き出す。
『忘れて欲しい』
──分かっている。私と先生は同じだから。
どんなに想い合っても、決してその先に進むことはないのだ。
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