第25話 ~欲~
アーシャは急ぎ荷物をまとめると、ミュゼットの兵と共に馬に飛び乗った。
マリウスも余程付いて行きたかったが、施術予定が詰まっていた為叶わず、憂わしげな表情でアーシャの背中を見送る。
……ローズ妃はもしかすると。
どうか何事もなく、無事に帰って来る様にと祈るしか出来なかった。
久しぶりに訪れるジョシュア皇子の屋敷は、重い空気に包まれしんと静まり反っていた。
慌てて早馬でやって来た兵とは反対に、落ち着いた様子でアーシャを中へ通す侍従。
嫌な予感に、背中を汗が伝った。
ローズ妃の部屋の前でアーシャの来訪が告げられると、バタバタと足音が響き、ジョシュア皇子が飛び出して来た。
「早く!早くローズを診てくれ!」
縋る様に叫ぶ彼の顔には、ただ底知れぬ恐怖だけが浮かんでいる。
腕を強く引っ張られ入った室内には、血の匂いが充満していた。
一歩、また一歩、ベッドに近付く度に震える足。
部屋の隅には、別の医師らしき男女が俯いたまま立っている。
白い布団よりも真っ白な顔で、目を瞑っているローズ妃。
アーシャは身体の芯から込み上げる恐怖を、必死に堪える。
「今朝、腹を押さえながら大量に出血した。呼び掛けても意識が戻らない」
腹……
「失礼致します」
恐る恐る布団を捲ると、白い寝巻の下腹部から足にかけてが真っ赤に染まっている。
震える手を下腹部にかざすも、内部が見えない。それは残酷にも、既に生体反応がないことを示していた。
アーシャは魔力を強め、何とか原因を突き止めようと内部を探っていく。やがてうっすら浮かんだのは、血で溢れた子宮と……
「どうだ!?早く治してくれ!」
医師として、人の死に直面するのは初めての経験であるアーシャ。改めて自分の未熟さを痛感していた。
……こんな時、どのように伝えればいいのだろう。
彼は恐らく、妻の死を理解している。理解した上で拒絶している彼には、きっとどんな言葉も届かない。
マリウス先生ならどうするだろう……医師として……医師……として?
違う……そうじゃない。
私は短い時間だが、一人の人間として彼女と関わったのだ。
ふと見下ろしたローズ妃の顔。今、彼女が望んでいることは何だろう。
アーシャの問いに答える様に、聞こえてきたのは……
「……ジョシュア殿下、ローズ妃殿下は落ち着かれ、よくお休みになっていらっしゃいます。先にこちらで皇女様の検診をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
皇子の命で、泣いているカトリーヌ皇女を抱いた乳母がやって来る。
まだ身体は小さめに見えるものの、以前よりはふっくらとしていて順調な成長が窺える。
「診察を致しますので、お母様のお隣へ」
アーシャの呼び掛けに、乳母は目を赤くしながら、皇女をローズ妃の隣へ寝かせた。
母親を感じ安心したのか、皇女はピタリと泣き止み、ローズ妃の顔にぺちぺちと触れては声を上げて笑う。
すると先程まではどこか苦し気だったローズ妃の顔が、穏やかに微笑んでいる様に見えた。
「ローズ、早く起きてカトリーヌの検診を一緒に受けよう」
虚ろな目で妻子を見下ろすジョシュア皇子に、アーシャは優しく言う。
「大丈夫ですよ。きっとお声は聞こえていらっしゃいますから。……ローズ妃殿下、皇女様の検診を始めさせて頂きますね」
手をかざし、小さな皇女の身体を診る。胃軸捻転であることは変わらぬものの、以前より栄養状態が良い。
乳母から手渡されたノートには、発育の記録だけでなく、ミルクを吐かなかった日のことや発達の喜びがローズ妃の手で綴られている。
「……問題ございません。発育も発達も順調です。もうすぐ離乳食も始められますね」
ふとこちらを向いた皇女が、ローズ妃そっくりのえくぼを浮かべて笑った。
その場に崩れ落ちるジョシュア皇子に、アーシャは跪き目線を合わせ語りかける。
「ローズ妃殿下のお着替えをさせて頂いてもよろしいでしょうか?このままですとお身体が冷えてしまいますので」
皇子は幼い子供の様にこくりと頷く。
傍に控えていた侍女は、とうとう堪えていた涙を流しながら言った。
「……妃殿下のお支度を致します。一番お好きなドレスを」
『下女上がりの分際で皇子を産むなんて』
『身の程知らずね。そんな
すれ違う度に罵られ、縮こまりながら廊下の隅を歩いていた母の背中を思い出す。
第2側室が皇子を産んだ時、これで楽になれると母が流した涙を、一生忘れることは出来ない。
陛下の第一子でありながら、皇太子の座には就けず第2皇子と呼ばれる自分。
権力を手にし、愚かな皇太子を駒の様に操ってやろうと必死で這い上がった。
いつか、出自だけで自分達を見下した、あの妃達をひれ伏させる為に。
政略結婚の相手に選んだのは、皇妃の親戚であり、皇帝に次ぎ国政を握る宰相の娘。
大きな後ろ楯を得られることは間違いなかった。
恐らく鼻持ちならない公爵令嬢だろうが、世継ぎを残せる身体であれば何だって構わなかった。
初めて彼女に会ったあの日。
一気に毒気が抜かれたことをよく覚えている。
その辺の町娘を無理矢理飾りてた様な垢抜けない女。口数も少なく、はいかいいえしか答えない。頭も弱いのか、言葉の裏を読み取ることもせず、自分を見てただにこにこと笑っている。
ふっくらした顔に浮かぶえくぼだけが、唯一の特徴だった。
結婚をすれば本性が現れるかと思ったが、彼女は何も変わらなかった。
初夜の寝所で、震えながら背中に伸ばされた手。乱暴にぶつけてやろうと思った気持ちが萎え、優しくするしかなくなってしまった。
その日から何故か女遊びをする気が失せ、子供が出来やすいと定められた日以外も、気付けば彼女を抱いていた。
子供を身籠ってもやはり何も変わらない。
夫である自分だけでなく、汚れ物を片付ける下女にまで優しく穏やかだった。
産まれてくる子供の為の毛糸以外は何かをねだることもなく、微笑みながら小さな帽子や靴下を編んでいた。
難産の末皇女を産んだ彼女は、産後の肥立ちが悪く寝たきりで。
宰相の娘を失いたくないのか……強い恐怖心に駆られ、首都の女医に手当たり次第見せたが誰も治せない。そんな時、ランドルフにあの女医を紹介され、身体が戻った時は深く安堵した。
……暫くこんな不可解な思いはしたくないと、寝所を別にし、ずっと耐えていたのに。
初めて彼女の方から伸ばされた手に、思わず抱き締めてしまった。
欲望のままに結婚して、欲望のままに抱いて……
彼女を殺したのは自分だ。
怖くて怖くて堪らない……
ああ……そうか。
この恐怖心は、彼女を愛していたからなのか。
何も伝えず、傷付けたまま逝かせてしまった。
もう二度と、彼女のえくぼを見ることは出来ない。
清められた身体に若草色のドレスを纏うローズ妃の傍を、ずっと離れないジョシュア皇子。
明確な指示が得られない為、侍従により今晩は一先ず屋敷へ泊まるようにと部屋が用意された。
扉を閉め一人になると、抑えていたものが堰を切った様に溢れ出す。それはアーシャの鳶色の瞳から頬、服まで。しまいには立っていられなくなり、顔を伏せた床を濡らした。
子宮外妊娠……誰でも起こり得る異常妊娠。だけど、
『殿下が側室をお迎えになる前に、出来れば皇子を産みたいの』
もっと強く止めていたら良かっただろうか。
夫と娘への愛に溢れていたローズ妃。
検診の約束をして、見送ってくれた日の笑顔が鮮やかに甦る。
優しいあの声は、もう二度と聞くことが出来ない。
堪らなくマリウスに会いたかった。温もりを、生きていることを確かめたかった。
死ぬのは怖い……
贖罪とか、そんなことじゃなく、ただ生きたい。
生きてマリウスの傍に居たいとアーシャは強く感じていた。
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